モ・クシュラという個人出版社のこと 横浜で働く

第33期(2017年6月-7月)

30代の始めに紫斑病という病気を拗らせて会社を退職してから、30代はずっと居場所を探していた気がする。派遣で働いたり、飲食や書店などでアルバイトをしたが、どこにいても場違いな気がし、途方に暮れた。そんな時期に、一度は辞めた出版社の編集長にお声がけ頂き、2010年の春に出戻ったが、その年の暮れにはまた退職を決めた。

退職間際に編集させて頂いたのは、現代美術家・高嶺格さんの個展『とおくてよくみえない』(横浜美術館)の図録で、この仕事のことはいつまでも忘れない。制作に向かう高嶺さんのスタンスには、誰もを傍観者のままではいさせない信念の強さがあり、私も高嶺さんの制作におけるいち要素として巻き込まれていくうちに、編集者としてではなく「いま・ここにいる私」として本がつくれるという実感が持てて感動した。この実感さえ忘れなければ、また本がつくれると思った。

2011年が明けてすぐの個展のオープニングに図録を間に合わせると、3月に退職。数日すると、東日本大震災が発生した。少し休んでから、また仕事を見つけようと思っていた矢先の未曾有の震災だった。石巻にある製紙工場が被災し、東京の出版社に紙が入らないとニュースが伝えていた。

生まれ育った横浜で仕事ができると思ったことは一度もない。ただ、非常事態において、しばらく横浜を拠点にフリーランスの真似事をしてみようと思った。「横浜 編集」というキーワードでグーグル検索をすると、横浜のまちづくりをミッションにしたNPOが運営する「さくらワークス<関内>」というシェアオフィスがあることを知った。

「さくらワークス<関内>」は八重桜が並ぶ「さくら通り」沿いに建つ築50年近い古いビルの2階、100平米ほどのスペースにあり、春には新緑が映える窓に囲まれたオフィスは、雑然と自由で居心地がよかった。横浜のまちづくりのハブ的存在であるNPOが運営するこのオフィスには、教育、福祉、アート、行政、色々な人が出入りする。月5,000円ほどの激安プランでこのオフィスに入居した私は、ノートパソコンを持ち込んで、フリーランスの真似事を始めた。安いギャラで原稿を書いたり、テープ起こしをしたり、シェアオフィスの受付をしたりしてお金をもらっていた。

オフィスに入居して1週間もたたない頃、近くのカフェに知人と夜食に出た。店内には楽しそうにワイン飲んでいるふたりの男性がいて、そのふたりと知り合いだという知人が、私を紹介してくれた。渡すべき名刺も肩書きもなく「どうも、はじめまして」とぎこちなく頭を下げると、20代くらいの山男のような風貌の男性が「僕、こういう者です!」と満面の笑みで足元のずた袋から一枚の絵を取り出して、名刺のように差し出した。彼は日本中を放浪して、当時、横浜に辿り着いた画家の吉本伊織くんだった。

もう一人の男性は美術家の稲吉稔さんで、「若葉町にある元銀行の古いビルを借りて、そこをアートリノベーションし、そのビルで街と地続きの表現を色々な人と生み出していきたい」と言う。「行ってみる?」と夜も更けた頃、みんなを誘い出してくれた。4階建てのビルの中は中2階まで吹き抜けになっていて、高い天井には屋上の室外機を再利用したという巨大なファンが回っていた。この日、私が行ったのはオープンしたばかりの「似て非ワークス」だった。中2階で、みんなで深夜まで話し込んだ。

「横浜は仕事場ではない」というある種の投げ出したゆるさが、相手をきちんと見ることにつながったのかもしれないが、横浜で働いていると素敵な出会いや驚きがたくさんあった。でも、いつまでもではない、半年くらいしたら、どこかに仕事を見つけなくてはと焦っていた。

一方、仕事らしい仕事もない中でスタートしたアムステルダム在住の写真家・小野博さんとの本づくりは、しばらくして本としての目鼻だちがつくようになってきて、もうこれは産まれそうだとなり、頭を抱えた。次の仕事を探すことよりも、出版することが先決になってきた。出版社に持ち込もうと思ったが、どうしても手放したくなくなって、自分のレーベルをつくって出版元になることにした。横浜で働くようになって一年以上が経っていて、その頃には、居場所を見つけなくてはと焦る気持ちが消えていた。