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2F/当番ノート

おとなとおはなし

当番ノート 第33期

いつから大人になるんだろう。
成人したら大人なのか、社会人になって自立したら大人なのか…それとも…。

2年前の6月に夫の母を看取った。大往生だった。私たち夫婦のことを「わたしのこども」という人たちがこの世からはみんないなくなった。
義母の葬式の帰りの車の中で、「もうこれで私は大人なんだ」と思ったのだ。55歳にもなった大人が思うことではないのかもしれないのだけれど、「今までは大人の練習、これからが本番だ」とはっきりとそう思った。成人式が大人なら、もうかれこれ35年間も練習を続けたことになる。

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私はその年の秋から、「おとなのおはなし会」をはじめた。
大人向けにも、今は児童文学を語っている。こだわりがあるわけではないのだけれど。
なぜ児童文学なのか、それはどこかで聞いたことがある言葉なのだけれど、むかしはみんな子どもだったことがあるから。そして、どの話も分かりやすく深い。ただ、その深さは、人によってもちろん違う。その人の手持ちカード(経験、言葉の数)にもよるのだから。そして、みんな違うことがとても素敵なのだ。

先週の例題の「おばけのはなし」は、けっこう深く読み取れる。
その内容は、
『ある村におばけが良く出ると言われた。毎晩夜になると村の家の戸をたたいては「何か食べさせてください」という。でもそのおばけはお腹がすいていてフラフラしていた上に、歯がなかったので「はひははへはへてふははい」としか言えない。こんな調子なので村の人たちは怖くて戸を開けられないのだ。ところが、ある家に丁度、自分も歯が抜ける時期の男の子がいて、おばけの言っていることがわかったのだ。
「何か食べさせてください」って言ってるよ。と家の人に伝えると、その家族はとても良い人たちだったので、おばけを家に入れてごはんを食べさせてあげるのだ。すると、おばけは毎日来るようになる。その間もおばけなのにかみなりを怖がったり、男の子におばけの国の昔話をしてくれたり、その家族とおばけはけっこうな仲良しになるのだが、そんな折、突然おばけが来なくなってしまう。そんなある日、おばけがまたやって来た。おばけはお腹がいっぱいになってちゃんと話せるようになっていたのだ。
おばけは、お腹がいっぱいになり、おばけの国に帰る力が出来て、これから帰るという。そのお別れと挨拶をしに来たのだ。
最後におばけはこの村に贈りものをするのだが、それは、目に見えないものだった。おばけが帰ってしばらくして、贈りものに気がつく。それは、今まで病気や喧嘩が多かった村なのだが、おばけが帰ってから、病気になる人もいなくなり、喧嘩もないので平和になったということだった。』

私がこの話をはじめて聞いたときの感想はこうだ。
たべものに例えれれているのは愛情で愛情がたっぷり受けたおかげで、おばけは生きていく(おばけに生きるも変なものだが)力が湧いたのだ。
中途半端の愛情は常に飢餓状況を生む。常に誰かを必要として捜し歩く。お腹一杯なれるまで。
そして、「星の王子さま」にあるように、本当に大切なものは目にみえない。いつのときも。

こどもたちは今この瞬間を懸命に生きるスペシャリスト。おはなしがはじまるとすぐにおはなしの中を歩きはじめる。大人の多くは、私もそうだが、先のことを考え不安になり、過去に戻り反省する。今の続きが未来であり、今を続けた結果が今なのに。今をおろそかにしている気さえする。おはなしがはじまると、無意識にその言葉の意味を考えたり、すぐにおはなしの中を歩くことはできない。おはなしの世界を上からのぞいているような気がするのだ。
ストーリーテリングは、大人には今を生きるトレーニングになるのかもしれないな。それが楽しいともっといい。そのためにはストーリーテラーはおはなしの良いナビゲーターでいてほしい。

まだ大人2年目。おとなのおはなし会も2年目。どこへ漕ぎだしているのかわからないのも今のところ面白い。

来週は はしやすめ

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Hanayo Ito

Hanayo Ito

ストーリーテラー
こどもとおとなの ハーナのおはなし屋さんを主催
  木工アーティスト

Reviewed by
ふき

私が生まれ育ったのは山間の小さな町で、図書館はなく、文房具屋を兼ねている小さな本屋が1つあるだけだった。小学校に図書室はあったが、日常的に訪れる場所ではなかったように思う。父が読書家だったのでたくさんの本が家にあったが、一般書ばかりで、子どもが楽しめる本はそれほどなかった。そこで私は、数少ない子ども向けの本をくりかえし読むほかは、父の蔵書から自分でも理解できそうなものを選んで読んでいたように思う。つまり、私が今、子どもたちに薦めたり、一緒に楽しんでいる物語のほとんどは、大人になってから読んだものなのだ。

ハーナさんは言う。生きてきた年数により、経験や言葉の数という手持ちカードが違うのだから、物語の深さは人それぞれだと。私は生き生きとした児童文学を読んだあとに、いつも考えることがある。「子ども時代にこの本を手にしていたらどんな風に思っただろうか」そう、子どもの頃の私と今の私はカードの数が違うし、もしかしたら捨ててしまったカードもあるのかもしれない。私は毎日自分のカードの中から自分が子どもの頃持っていたカードを探り、そして、相手の持っているカードを想像しながら本を手渡しているのかもしれない。

そして、大人の持つカードの多さは、おはなしを聞く中で、物語をさらに楽しむ豊かさにつながっていくのだろう。私達のいる世界とおはなしの世界を瞬時につなぐかけ橋に化けるカードは私達は持っているのですね、ハーナさん。

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