「表現のたね」という本のこと

第33期(2017年6月-7月)

明日も繰り返される日常を「やりすごす」ために、美術館や映画館や劇場といったいわば非日常に行き、表現を求めることが多かった。

モ・クシュラからの第2弾、『表現のたね』(アサダワタル著)は、端的にいってしまえば、日常をやりすごすのではなく、「生き直す」ために企画した本で、日々流れていく日常を、著者・アサダワタルさんならではの「表現的な目線」で捉え直した短編の物語が収録されている。

アサダさんは、ミュージシャン、執筆家、文化事業のプロデューサー、講師業など、その活動は多岐にわたるが、「日常編集家」という肩書きで、日常を素材にした表現活動や、日常から思考を立ち上げる文化活動家である(活動内容は引き継ぎつつ、日常編集者という肩書きは2016年まで)。

この本のつくり方は少し変わっていて、当時、滋賀に住んでいたアサダさんとスカイプをつなげ、アサダさんの日常の中から、日常に潜む創造性のかけら=表現のたねを採集するところからはじまった。

「この話って、表現のたね、あるんちゃうかな?」と言って、アサダさんが話しだすエピソードは、友達と遊んだ幼少期の思い出や、つい先日の家庭の中での会話、家に帰る道すがらの風景、もう死んで別れた人との記憶の中でのやりとりなど、どれもたわいのない話なのだが、アサダさんの「表現的な眼差し」が向けられると、確かに、そこには創造性のかけらというべきものがあるようだった。

こうして半年以上かけて採集したエピソードは何十時間ぶんもの録音となり、その中から23の物語を選び出してアサダさんに執筆してもらい本の形となった。

この本の中でアサダさんが眼差しを向けるのは、一瞬の揺らぎや淡いの中にある記憶や風景、ぎこちなく、頼りなげな事や物・者たちだ。それらは、そこに居るのになぜか見えない、見過ごされがちな小数点以下、未満のものたちともいえる。

と、ここまで書いて、話は飛躍するけど、なんとなくずっと思っていたことがある。

目の前にある風景や他者、出来事、さらには感情や感覚は、本来、等価に存在するにもかかわらず、よく見えるもの(拾われるもの)と見えないもの(捨てられるもの)があるのはなぜなのか?

たぶん、私たちの眼差しというのは、ただ放っておけば、その社会の価値体系に従う。例えば、その社会が効率のために小数点以下のものを切り捨てるのであれば、私たちの眼差しも小数点以下のものを切り捨てるだろう。

小数点以下のものとはいったい何で、その価値体系は誰がつくっているのか? というのは、また別に考え、丁寧に語るべきことだけど、アサダさんの多岐にわたる活動には、そうやってはじき出されたものたちを掬(救)いだそうとする眼差しが一貫してあるような気がし、この本もそうしたアサダさんの目線が詰まっているように思う。

私たちが生きる日常はいつも定まらず、頼りなく、常に「弱い現れ」として存在している。