「読む」ということ

第33期(2017年6月-7月)

「アパートメント」の管理人で編集者・ライターの小沼理さんから、「アパートメントで書きませんか?」というお誘いのメッセージをいただいたとき、私は親戚が営む沼津のスナックに真昼間から居た。昭和レトロなスナックで、時間外営業の店内にかかるカーテンは締めきられていたが、わずかな隙間から外の陽が眩しく漏れ入っていた。

そのスナックには、数年前に籍を入れたまま、結婚の報告をしていなかった親戚に挨拶をするために来ていた。心身ともに居心地が定まらず、真昼間だというのに、お酒にばかり手が伸びた。メッセージをもらったのは、これは飲みすぎるぞという脳内注意警報が出され、洗面所で休憩をしているときだったので、小沼さんの文章に、酩酊しそうな自分をどこかの他者が支えてくれるような気配を勝手に読んだ。

「アパートメント」で書く私の記事に対して、推薦文を書いてくださっている写真家の木村和平さんは、とてもやわらく、心にすっと空気のように流れ入る写真を撮る方だが、木村さんのホームページの「photography」の最初に赤いカーテンの写真があり、その写真を通して感じる陽の強さは、あの日、沼津のスナックにかかっていたカーテンを思い出させ、なんともいえない気持ちが蘇える。

私は、私のことなど感知しえないところで発せられた小沼さんのメッセージや木村さんの写真に、自分の体験や記憶をまとわせて読む。

そういえば、昔、勤めていた会社の隣家に住んでいた60歳くらいの女性が、私があるコートを着ているときに会うと「あら、素敵なコートね」と言って、亡くなった彼女の旦那さんことを話しだすことが度々あった。何度目からは聞き流してしまっていたけど、あれは私の着ていたコートの色か、形か、素材か、匂いかが(あるいはそれ以外の何かが)、彼女の亡くなった旦那さんの記憶とどこかでつながっていて、私のコートからそれを読んでいたのかもしれないと思う。

そういえば、先週のことだけど、ある方と話をしていたら、その方の知り合いに、ある食べ物をずっと食べれない人がいて、それは肉親との悲しい別れ方、その別れ方のディテールと関連しているのではないかというような話をされ、「人はいろいろなもの、背負って生きているよね」と仰った。

私たちは、自分の気持ちや体験をいろいろなものにまとわせて生きている。そのまとわせたものが切実であれば、まさに「背負いながら」生きることだってあるかもしれない。

「読む」という行為は本の中にだけあるはずはなく、自分の有り様や、相手の有り様を感じ取ったり、想像していくことの中にもきっとあって、だからこそ、そうした日常はとても豊かだなと思う。