蕎麦と私。

第36期(2017年12月-2018年1月)

蕎麦っ食いな私。
そんな私が住まいしているのは、長野県上田市。
そう、言わずと知れた蕎麦処・信州。
しかし、そんな蕎麦処・信州に居を移してから、蕎麦を食べる機会が激減した。皮肉な悲劇である。

では、何故そのような悲劇が起きたのか?
それは長野県が車社会だからである。車社会とは主たる移動手段が自家用車の社会の事である。
どこに行くにも車で、バスや電車などの公共交通はほぼ利用しない。我が上田市も公共交通がないわけではない。
地味ではあるが、新幹線も停まるし。

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私も例外なく、この車社会に参加しており、
日々愛車の軽トラ(因みに信州人は「ケットラ」と言う)を駆って移動をしている。
であるからして、公共交通の駅やら停車場に行かなくなってしまった。
そう、そして駅と言えば誰がなんと言おうと「駅そば」であります。
この「駅そば」こそが、私の主たる蕎麦摂取場所だったのである。

東京にいた頃は電車移動が当たり前であり、愛すべき「駅そば」には事欠かなった。
更には駅にあらずとも、「富士そば」を筆頭にカジュアルな蕎麦屋が街の至るところにあり、
私はそれら蕎麦屋を秘かに「駄蕎麦屋」と呼び、贔屓にしまくっていた。

翻って我が信州は蕎麦処。
それが仇になり、私の愛すべき「駄蕎麦屋」がないのであった。
いや、あるにはあるのだが、
蕎麦処と言う無言のプレッシャーがあるのか肩身が狭そうでひっそりとやっていて目につかない。
悲劇である。
そうして、あるのは格式ばった、ちゃんとした蕎麦屋ばかりであり、
それらのお店には駄蕎麦屋の“だ”の字も感じられない。

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とにもかくにも、車社会と蕎麦処のおかげで、
駄蕎麦屋が遠いものになってしまった。
家で乾蕎麦を茹で、すすって自分を慰めてみたとて、私の駄蕎麦屋への想いは募るばかり…
しかし、ある日、募る想いがコップから水が溢れるが如く衝動が全身を駆け巡り、
私を駄蕎麦屋へ向かわせたのだった。つまり、駅に車で乗り付けて駅そばを食べに行った。
我ながら本末転倒甚だしい。

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「駅そば」を筆頭に駄蕎麦屋は“ついでに”とか“たまたま、そこにあるから”行くのであり、
積極的に行く所ではないと私は考えている。
そのややもすると消極的な感じが駄蕎麦の駄蕎麦たる由縁にして、良さなのだ。
だから、わざわざ「駅そば」を食べに行くのは私の駄蕎麦の美学に反するのである。

私が思うに「食べる」には、エサと食事の2種類がある。
駄蕎麦はその中間で、エサであり、食事である。
どういう事か、説明しよう。
本来、自然界にはエサしかなかった。あるものをあるままに採って食う。
生き延びるために食べるのがエサであり、究極的には美味しさなどは不要である。
必要なのは栄養及びカロリーだけだ。

それが人間様のなさる食事は違う。そのまま食べれば良いものをアレコレ調理して食べる。
蕎麦を例に挙げるなら、
蕎麦の実を粉にして、練って、麺にして、ツユなども作って、それに浸して食うのだ。
更には味だの、食感だの、誰が作っただの、ミシュランだの、マナーだの、オーガニックだの、
ナンチャラカンチャラ…が求められており、複雑極まりない。
食べ物そのものではなく、
食べ物に付随した情報を「美味しい」と言って求めていたりもする。

かように人間の「食べる」は複雑なのだ。
なんとメンドイ生き物であろうか、人間。
かといって、エサ的に必須栄養素をサプリメントで摂取してれば良いと言うわけではない。
やはり、情緒も欲しい。
なんでもバランスをとりたいものだ。
つまり、中道。どちらかに寄るのではなく、
真ん中が楽よね、と仏陀は随分前に説かれたのであります。

随分回りくどかったが、ここで駄蕎麦なのである。
駄蕎麦が選ばれる時、人はエサと食事の妥協点/中間点に着地する。

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「何か食いたいなぁ。何食おうかなぁ。
マックは身体に悪そうだしなぁ。あ、駅そばだ。
じゃ、ま、時間もないしとりあえず蕎麦にしとくか」

妥協である。
マックにはない日本食と言う文化的背景、
蕎麦ならヘルシーと言うイメージ、
しかし、実はマックより早いファストフードさ。

駅そばを食べた事がある人はお分かりだろうが、
駄蕎麦のファストさは世界一ではなかろうかと私は思う。
食券渡してから1分位で出てくる驚異的ファストさ。
このスピード感はエサに近いなぁと毎回思う。
そして、そのエサを食ってる感、全然文化的じゃない、丁寧じゃない感は
罪悪感を伴いつつ、小さく自尊心を傷つける。
し・か・し
「日本食・蕎麦」と言う強力な文化的背景で、
その傷は忽ち癒され、なかった事にできるのだ。
「仕方なし」と「納得」の微妙な両立が成されるわけである。

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駄蕎麦の絶妙なバランス感、分かって頂けただろうか。
食の中道、ど真ん中。
良くも悪くもない、うまくもまずくもない、
いや、それを超越し、ただ「食べる」がある。
それ以上それ以下でもない食べもの。
それが駄蕎麦の良さなのだ。

信州は住みよいことこの上ない。
しかし、私はもはや以前のように駄蕎麦を駄蕎麦として味わえなくなってしまった。
人は何かを得れば、何かを失うのであるなぁ。
一杯の天ぷら蕎麦から学んだ事である。

それでは皆さん、よいお年を。