ひかりの採集 / 09.光

第37期(2018年2月-3月)

またひとつここに舞台が生まれ、消えた。
シャッターの向こうに見える空は暗く、しとしと雨が降っていた。全ステージが終わった後、汗ばんだ体のまま舞台の真ん中に立って空っぽの客席を眺めた。茶色の30の椅子がこちらを向いていた。背には大きなヘッドピースが光をともして吊られている。下手には照明機材、上手には音響機材がまだ片付かずにそこにあって、いずれ箱に収められることを思ってなごりおしかった。この舞台は神社みたいだなあと思った。左右に音響と照明という阿吽がいて、奥には首のない神様みたいなヘッドピース。ここは酒屋の薄暗い地下倉庫に現れた神社だった。雨が降っている。
IMG_3589

アパートメントの滞在は今日で終わりだ。今日の夜中にここを出ます。手ぶらできたのに、たくさんの荷物をバックに詰めて、手に抱えて帰路につくことになりそうだ。これから荷造りをします。まずは

熱海での10日間を写した三本のネガフィルム
(0.43)という劇団で「クローン羊の捕獲方法」という演劇を熱海でしました。10日ほどの滞在だったけれど、もう本当に、まるきり演劇の見方や、舞台への立ち方が変わった。今までは、もっとも大事なのは劇の「テーマ」であって、そのテーマを伝えるための言葉を自分なりに楽しむことをしていた。が、なんせこの劇には分かりやすいテーマがなかったので、「作演出が何をやりたいのか」を汲み取る必要があった。そして彼らがやりたいことの媒体として、自分を機能させることが大事になっていった。この考え方を手に入れることで、なんとなく色々なものに対する心の受け入れ体制が拡張されたし、舞台に立つ間、自分の感情に振られることが少なくなった。そしてまた演劇のことを好きになった。企画ごとに、作も演出も仲間内の雰囲気も方針も違う。それぞれに問題があり、賞賛や批判があり、オリジナルの味があり、決してひとくくりにできるものではないが、遠いところから見た時の、「演劇」という表現のジャンルがすきだ。いつ誰がこの舞台を止めることができる中で、誰も止めなかったことの凄さ、観客は役者に心を預け、役者は役者と観客に心を預け、空間にいるすべての人間が舞台を作り出している、物語を編んでいる感覚は、この演劇でもやっぱり身体のすみずみで感じることができて、ありがたく、いつでも泣きたかった。

宙に手足が描く弧
ダンスを覚えた。ダンスってかなり苦手分野で、だってリズム感ないし恥ずかしいし私の体の動かし方はふにゃんとしていてかっこよくないし!と思っていたけれど、ある人が教えてくれたダンスは、自分が心地よく体を動かせればいいというスタンスで、肩肘張らずに自由に体を動かす方法を教えてくれた。踊れるようになったことは自分の中で大きな成長だった。初めて関節や筋肉の動きにフォーカスして自分の身体を眺められたし、気持ちよく動かせるようになると楽しい。ふにゃっとしていてもいいんだ、かっこ悪くてもいいんだ、という発見。今では細かい時間を見つけて踊っています。朝ごはんの前にとか、朝ごはん食べた後にとか、夕方帰ってきてすぐにとか、夜寝る前にとか。場所はキッチンだったり、ベランダだったり、家の前だったり。イヤホンをして、音楽を流して、目をつぶって、夜だったら電気を消して、誰に見せるでもないダンスをする。

約束
二ヶ月間で、いろんな人といろんな約束をした。例えば、「これから恋人同士でいましょう」という約束、「一緒に演劇をやりましょう」という約束、「旅行に行きましょう」という約束など。未来のことなど何一つわからない、絶対などない中で、私はいつも心の中で保険をかけてしまう。友人に約束をしたと話した上で、「でも口約束だし」と言ったら、「約束なんて全部口約束だよ」と返されてハッとした。今私はすべての約束を信じている。約束なんて全部口約束だよ。

フィルムカメラと二本のフィルム、いちご大福、宇宙人の絵、木製の魚のおもちゃ、羊の木彫りのスタンプ、手紙の数々、トランプ
愛しい人たちにもらったもの。プレゼントって本当に嬉しい、彼らの、ものを選んでいる姿、絵を描いてくれている姿を想像して、その人のことがもっと好きになる。(なぜ、愛しい人とかいて愛人というのか。愛人がもっと違う意味だったらな。友達とも恋人とも親とも違う、全てのラブい人間を愛人と呼びたいのに。あ、でもそれだと直接的すぎて興ざめするのかな。)

60枚の自撮り
今年1月1日から友人と始めている、365日1日1自撮り、この二ヶ月で多分60枚ぐらい増えた。最後まで撮り続けた暁には、これらの自撮りを本にまとめて土に埋め、自意識の埋葬をするのだ。

ゆるやかに変わっていく前提
わたしには長いこと刷り込まれた考え方の癖があって、それはいつの間にか生きる前提、前提にすらなっていて、自分にとってはあたりまえすぎて気づけなかったことを、人に指摘されて気づくということがあった。それは、自分が大丈夫になってしまう怖さ、なのだけれど、わたしは今まで「大丈夫になりたい大丈夫になりたい」と祈るように思いながら、本当は心の奥底では、大丈夫になりたくなんてなかった。その時思ったことに嘘はなかったけれど、わたしはわたしを大丈夫にさせる気などなかったらしかった。大丈夫じゃないことが自分の性質なのに、大丈夫になったらわたしに意味はなくなってしまう、と、そう馬鹿げたことを前提に生活していたので、いつもブレーキとアクセルを全力で一緒に踏んでるみたいな、出来るだけナチュラルに失敗になるような、大丈夫じゃない自分に傾くような選択を無意識にしていた。……と、書くと、本当にバカな話だな〜と思うが、一度、「大丈夫になっても死なない」と口に出してみたら、うす気味悪くて、怖くて肌が粟立った。怖い。でも変わりたい、怖い、変わりたい、変わりたい。わたしは大丈夫になっても大丈夫だから。大丈夫かな? 大丈夫だから。大丈夫。

IMG_3395

_

高校の国語の教科書に載っていた小説のことを、ふと思い出した。確か、散々にふられた女の人が、送られてきた段ボール箱にランドセルを見つけるはなしだった。小学生の時はランドセルひとつでどこまでも行けると思っていたけれど、引っ張り出した今、もう一度ランドセルに物を詰めてみたら旅行1日するのも難しいぐらい満足にものが入らなかった。自分には何も無いと思っていたけれど、ランドセルに詰めきれないほどたくさんのものを持っていた。彼女はランドセルを背負おうとするが、腕が通らなくてひとしきり笑った。……というはなし。なんていうタイトルだったっけかな、と調べたら(記憶の答え合わせが簡単にできちゃう時代すごいな)、角田光代の「ランドセル」でした。そのまんまだ。

わたしはめちゃくちゃひとりだな、と思う時がある。大抵それは満員電車の中だ。掴むつり革もなく他人の体温から逃げる場所もなく、人の圧だけで立たされているこもった空気の中、「天変地異か何かで全人類がすっぴん・全裸・丸坊主になって白い平地に立たされる妄想」をする。そのとききっとわたしは呆然とするだろうな。どこにも繋がる場所がない、誰もがいるのに誰もいない、信じる人がいない、などと言ってはらはらと泣くかもしれない。

9回分の光を書いて、9回分の光をかけたわたしであることがうれしかった。何もないから、と、目の前にある手を全部掴もうとして、ひたすらに誰かと繋がろうとしてやまない自分の底なしの穴ぼこにいったん封ができた。「ランドセル」の彼女みたいにものを詰めたら、すでにパンパンだろう。わたしももうすでに色々なものを手に入れていた。ばく然とした気持ちで「ひかりの採集」を始めたけれど、ひかり。 ひかり、って多分、明るい場所でも触ってそれが光だとわかるような、あたたかい温度の関係なんだろうな。
バックをよいしょっと肩にかつぐ。

そして白い玄関の扉の向こうへ。