近くにあって遠い、仄かに気になる存在

第37期(2018年2月-3月)

近くにあって遠い、仄かに気になる存在。
それが私にとっての「言葉」である。

大学生の頃から、ダンス作品をつくるようになった。
それは、まだ形になっていない、けむりのような思考や想像を言語・身体化し、ダンサー、舞台美術家、音楽家、舞台のスタッフなど、関わってくれる人に対して伝えるという作業だ。
具体的に動きを「こうやってください」と見せ模倣してもらったり、手や身体を用いて身体感覚を伝えたり、時には「やわらかく」「タタタと」「その先を見るような眼差しで」など、ありとあらゆる言葉やイメージ、音楽、感覚を総動員してお互いの感覚をすり合わせて形にしていく。

同じく大学生の頃、演劇を学ぶ同級生達が学校の食堂やピロティーで「エチュード」という即興劇をしてよく遊んでいた。
いきなり目の前で始まる、架空の世界の会話を「どこからが虚で、どこからが実なんだろう」と思って観察していた。

なぜこの人たちは言葉を発するのか。
そして自分自身の作品は言葉を用いて製作するのに、作品中でなぜ言葉を発しないのか。
「言葉」とは一体何なんだろう。
ずっと、気になっていた。

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ダンスを生業とする日々の中で、様々な人と出会う。

2010年、海外での作家活動を目指して滞在したドイツ・ベルリンでは、生活の中で話されている言語はもちろん、宗教、性別、習慣、人種などに対する様々な価値観の差異に心身を揺さぶられた。(そして今現在の日本での生活でも同じことを感じながら生きている)。

外国人、男、女、ゲイ、レズビアン、大人、子供、老人、障がい者、健常者、独身、既婚、年齢、職業などなど…。
それぞれが「社会」というふわっとした目に見えない塊の中で、カテゴライズされている。
私もその中の一人である。

でも一人一人の人間に丁寧に目を向けると、みんな同じ「人間」だと感じる。
違う言語を話していても、伝えたいという気持ちがあれば、伝わるものがある。
からだが流暢に動かなくても、一緒に踊ったり、そばにいることはきっとできる。

大事なのは、その人自身の芯。
それは、ゆっくり深呼吸して、丁寧に見つめていくことで、見えてくる。

いつの時代も、見えないものへの不安は誰もが感じることかもしれないけど、結構、意外と、大丈夫なのだ。

言葉で伝えたいこと
言葉だから伝わるもの
言葉では伝えられないもの
言葉じゃなくても伝わるもの

愛を伝える
それは
手に触れることかもしれない
手に触れないことかもしれない
好きな絵を見せることかもしれない
ご飯をいっしょに食べることかもしれない
とっておきの言葉をあなたに向けて発語することかもしれない

昨年製作した作品に、初めて「言葉」が登場した。
演者は、いわゆるオノマトぺのようなシンプルな音の繰り返しや言葉になる以前の「音」を発音したり、意味のわかる日本語を発語したり。

既に在る(とされている?) 価値や意味をもう一度丁寧に見つめ、自分達の言語(身体言語も含め)を一緒に、探す。
これが答えだ、という確固たる保証や答えはないが、「私達の表現はこれだね」という互いの共感覚や覚悟がそこにはある。
そしてそれはなぜか、私達の目の前にいる観客に伝わっていく。

相手と自分の間に生まれるもの。
それが一体何であるのか、いつも、探している。
それがわたしにとってのダンスだ。

仄かに気になる存在に、少し近づいてみようと思う。