腹の中で醸したものを、いつ出すのか

第38期(2018年4月-5月)

「これは書いておかないといけないっていうこと、誰しもあると思うんだけど」
「うん」
「いつかしたいって思っていても、なかなかできないことが多いから、『今だよ』って投げ込んでくれるのは、ありがたかったかもしれない」

取るに足らない、だけど「わたし」にとってはどうしても大切な思い、体験、出来事…それをわざわざ文章にして、他人に見える場所で公開する(しかも〆切という強制力がある!)というのは、いったいどういうことなのだろう?

この問いに答えることは、この「アパートメント」で書くことの意味を考えるひとつの手がかりになるだろうと、友人に尋ねてみた。

廣安ゆきみさん。
彼女がここに入居して書いてくれたのは2017年の7月〜8月の夏の時期。
中学1年生から高校3年生までの、下宿時代についてのエッセイを書いてくれた
http://apartment-home.net/author/yukimihiroyasu/
P1111243-362x272

なにか「結論」や「教訓」があるわけではない、自身の経験を「一般化」したり「社会」を語ったりするわけでもない。
だけど確実に、当時と今と、そしておそらくこれからの自分の人生にとって何か重要な影響を与えているであろう日々のことを、誰に向けるでもなく、「今の私」が述懐する。

ただそれだけの文章なんだけど、ただそれだけの文章が、僕はとても好きだ。
そして「アパートメント」にはそういった文章がよく馴染むと思う。

「下宿時代のことを書いているようで、実は違うことを書いていたのかもしれない」
「へぇ」
「最初は、今の自分を引き合いに出ししながら、あの頃ー下宿時代のことを書こうと思っていたんだけど、気がついたら逆になっていて。下宿時代のことを引き合いに出しながら、今の自分のことを書いていたんだなって」

「なんなんだろうね、それ」
「確実に自分が生きてきたなかの人格形成だったり、大事な部分を育んでくれた一時代なのは間違いなくて。その後の人生に、何か根本の部分で影響を与えている時代なんだと思う。でも結局、あの頃の日々をそのまま書くのってできないじゃない。書いたんだけど、書ききったな、もう荷が降りたなって気はしないっていうか。もう10年ぐらいして改めて下宿のことを書いてもいいなとも思っている」

「10年後に書くとまた違うだろうね。なんだろうそれ、人生における『古典』的な時代?」
「なんかこう、『アパートメント』でみんなが書いていることって、ちょっと”醸されている”感じがする」
「あーなるほど。発酵」
「SNSとかnoteってもうちょっと、今感じたことをもうちょっとフレッシュに書く人が多い印象があるんだけど、ここではちょっと時間の流れが違うというか、一回自分の腹のなかに飼って醸してましたっていうのを、蔵出ししている感じがする」
「蔵出しかぁ。そういうものって、いつ出せば良いか、自分ではなかなか踏ん切りつかないこともありそうだよね。」
「そう、だから〆切強制力があるのは、矛盾してるようだけど、ありがたい仕組みだと思う」

「いつか書かなきゃ」「言葉にしなきゃ」
そういう、衝動なのか焦燥なのか、使命感なのかを抱くことって、誰しもあると思うんだけど、それが「今」なんだよって一意に決められることってほとんどないと思う。

腹のなかで飼って醸す必要がある。でも、どの程度の時間醸せば十分なのかわからない。
ながーくながーくかけて醸すのがちょうど良いということもあれば、気がつけば腐ってしまって、「今の自分」に出せるものじゃなくなってしまうこともある。

こういうときは、誰かに「今だよ」って言ってもらう、無理やりにでもお尻を決めてもらって、それまでに醸されているものを蔵出しするみたいな、ある種強引な外からの作用が必要な気がする。

それが「正解」かなんて誰にもわからないけど、少なくともそこで世に出た物語は、今のわたしにとって「大切」な何かであることは確かだ。

アパートメントは、それが出来る場として機能してきたと思う。
 
 
…だけどやっぱり、ちょっと不思議な感触もする。
「わたし」にとって大切な、第一義的に「わたし」のための、体内発酵蔵出し物語を、わざわざウェブで公開するのだ。

明確な群としての「誰か」「こういう人たち」という読者像があるわけでもない。強いて言えば「わたし」が読者。
それでも、どこか遠くの、似た経験をした「わたし」にとって、書いた本人も知らないところで大事な物語として届いていたなら、それはとっても幸福だなって。
 
 
 
 
  
 
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