ままならないこと

第38期(2018年4月-5月)

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赤子の寝かしつけとは不条理との戦いであり、一種の修行みたいなものだ。

ムスメを抱っこしてゆらゆら揺らして寝かしつける。目をつぶって寝息をたてだしてからも油断はならない。しばらく様子を見つつ、「もう大丈夫かな?」というときに、起きるなよー起きるなよー念じながら、そーっとそーっと布団に置く…んだけど、置きかけた瞬間にすぐ「ふ、ふぇ」って目覚めて泣き出すモーションを見せるので、慌てて抱き直してまた寝かしつけて…みたいな無限ループ。

いやいやキミ、さっき寝息立ててましたやん。眠そうにふげふげ言うてましたやん。眠いんやったらそのまま思う存分寝たらええんやで。と心の中でツッコミを入れてみても無益である。本当に赤子の「背中スイッチ」というやつはやっかいだ。

さらにやっかいなことに赤子というのは、大人の側の焦りや疲れからくる筋肉のこわばりみたいなものをダイレクトに感じ取る力があって、寝かしつけては起きる、寝かしつけては起きるのループを繰り返すうちにだんだんと逓減していくこちらの寝かしつけクオリティに対して抗議の声をあげるかのように泣きがひどくなったりする。

とにかくそんな感じで、腰や腕の痛みに耐えながら、やがて来るであろう終着点を夢見て抱っこを続けるのである。
(終着点というのは、ムスメの側が泣き疲れて、置いてももう目覚めなくなるぐらいの眠りに入るか、ツマとバトンタッチして添い乳で無理やり寝かせるかどちらかだ)

ままならない。

子育ては、ままならないことばかりだな、と思う。

とはいえ、このまま時間が経つにつれて、あれやこれや行ったり来たりしながら、だんだんと”慣れて”いくのだろう。とも思う。

この、ままならないこととままなること(書いてみると呪文みたいな文字面だ)の間というのは、いったいなんなのだろう。

子どもが生まれた。
住む場所を変えた。
学年が変わった。
配属先が変わった。
新しい会社に入った。
付き合っていた相手と別れた。
家族やペットがあの世へと旅立った。
病気の診断を受けた。
もう会えないなと思っていた相手と再会した。
旅に出ることにした。

ある日、穏やかな暮らしに”波”が起きる。
それまでぼんやりとやり過ごせていた日々に、ままならなさがやってくる。

「非日常」の出来事に人生が波打つとき、そこでようやく立ち止まって考える。
そもそも僕は、どうしてここにいるんだっけ。

起こった出来事と、波立つ自分の感情、そうした断片を捕まえて、過去と現在を一連の流れの中に置き直し、自分の人生の物語としての理解を試みる。言葉を探して文を紡ぐ。

ままならない何かがあって、それがうまくいくかはさておき、どうにかこうにかままなる形に落ち着かせたい。僕が、他でもない自分自身の人生について、わざわざ文章を書いて語ろうとするときは、だいたいそういうやりどころのない欲求というか指向性のようなものが顔をのぞかせているときだ。

しかし一方で、純然たる「非日常」の出来事なんてあるのかな、とも思う。起こった「非日常」の出来事そのものについて考えたり、その出来事の対処をしているようでいて、それは結局これまでの「日常」の写し絵でしかなくって、これまで自分が経験してきたこと、形成されてきた価値観や信念が、改めて浮き彫りになっていくプロセスなのかもしれない(もちろん、まったく新しい発見や変化がないかというとそんなことはないのだけど、焼き鳥屋さんが秘伝のタレを継ぎ足し継ぎ足ししているように、じわじわと少しずつ成分が入れ替わっていくような感じだ)。

つまり何が言いたいかというと、ギャン泣きするムスメをあやしながら(あー、原稿が進まない)と嘆いてみたり、ムスメを抱きながらの無限スクワットの最中に(体力落ちたな…そしてお腹もたるんだな)と反省してみても遅いのであり、それはムスメのせいではなく私自身の日常の積み重ねの帰結でしかないのであって、このアパートメントの連載ふくめ、いつもギリギリでお尻に火をつけながら間に合ってるんだか間に合ってないんだかの境界線で人生乗り切っている(乗り切れていない)ことに反省をした方がいいの、僕は。