網の目からこぼれ落ちたものを掬うような

第38期(2018年4月-5月)

「だって、他に行き場所がなくてうちに来てくれたのに、そこでも弾かれたら、どこにも行き場所がないかもしれないじゃないですか。だから私は、“はざま”に手を伸ばすってことに、誰よりもこだわりたい」

最近異動してきて、同じ編集部で働くことになった人が、外出中に歩きながらそんなことを話してくれた。
とても彼女らしいなと思ったし、僕もきっとそういうところが大事だと思うから、燃費悪く右往左往しながら働いているんだと思う。

営利だろうが非営利だろうが、モノやサービスをつくって届けていく、それでもって誰かの役に立ちたいと、何か特定の目的に向かって、集団でコトを起こして続けていこうというときには、常にリソースの問題がつきまとう。それは、人手であったり、お金であったり、時間であったり、場所であったり、材料であったり、技術であったりさまざまだけれど、とにかくどんな時にも共通して言えることは、「一度に全部のことはできない」ってことだ。

それでもどうにかしたいと思うから、僕たちは時間の物差しをグッと引き伸ばして、その中で優先順位やメリハリをつけて、まずこれはやる、これは今はやらないって決めて、いつか「もっとたくさん」できるようになるために、お金を稼いだり、技術を磨いたり、組織を大きくしたり、ということをやっていく。大小やスピード感の違いはあれど、会社などの組織での仕事は、だいたいそういう風にして進んでいく。

それで、「今はやらない」箱に入れたものには、貴重な、限りあるリソースを割くわけにはいかないと、そういう意思決定をして、後ろ髪を惹かれたり、歯を食いしばったり、もどかしい思いをしたり、あるいは人によっては無かったことにしたりして、「未来」には、いつかどこかで届けられるようにと、希望を先送りしながら、僕らは今を踏ん張っていたりする。

だけど…どこまで行っても、どれほど社会が進展しても、その時点での「今」を切り取ったとき、社会の網の目からこぼれ落ちる人、市場や制度の想定ユーザーからは外れてしまう人、つまり集団レベルで見ると「後回し」にされてしまう人というは、必ず発生する。

だからこそそれぞれがそれぞれの仕事で、領域で踏ん張っていって、未来に向かってなるべく網の目を細かくしていくのだ、ということなのかもしれないけれど、僕たちができることは、本当にそれだけなんだろうか。

「いまこの会社が取り組んでいる領域が好きなので、『やりたいこと何?』って聞かれても、全部がやりたいことというか、うちで働く限りにおいては、どの部署、どんな仕事でも打ち込めるんですよね、私」
「それはほんとに見ててもそう思いますけど笑、その中でも特に”これだけは”っていうこだわりが、ありそうな気がするんですよ。そういうの、もうちょっと大事にして表出して良いと思うんですよね」

彼女はとにかく良く働く。一度チームで目標を決めたら、達成に向けてものすごくコミットする、なんかこう、武士みたいな人だ。

だけどそういう彼女が、いつも気にしているのは”はざま”のことなのだ。そしてこの有り様は、共存可能なものなのだと思う。

機械と人間がどう違うのか、今後ますます人工知能も発展していくなかで、それに答えることは難しくなっていくのかもしれない。

でも少なくとも一つ言えそうなことは、デジタルではなくアナログで生きている人間には、無駄とか余白…”はざま”の存在を感じ取り、慈しむだけのなめらかさが備わっているということだ。

この社会を成り立たせているたくさんのもの・こと。
資源の掘削、電気・ガス・水道の供給
小麦の収穫、街のパン屋にレストラン
糸の紡績から、編み物・織り物
図書館、学校、インターネット

網の目のように張り巡らされたこうした「システム」を成り立たせているのも人であるのはもちろんのことだけど、私たちの営みはシステムを一度つくってそこで終わり、ではない。

そこに不備が生じたときに、また繕い、直そうとすることだってできるし、システムが大きすぎて今はどうにもならないことに対して、「それでも」と手を伸ばしてふんばることだってできる。

よく科学された丈夫な既製品の服も、少しずつ傷んだりほつれたりしていく。けれども、そこに自分で糸を通してお直しすることで、より長く着られるようになるし、いつしか一点物のオリジナルに生まれ変わる。そんな活動を、自分と周囲の人たちとずーっと続けている人がいる。

「この島には、子どもも少ないから」と閉じてしまった学校がある。それでも、少なくたってそこにいる子どもたちのためにと、周囲に呼びかけ、協力を集めて学校を再開させ、さらには島民誰もが集える図書館を作ってしまった人がいる。

時間も人も限られている、「やるべきこと」リストが山ほどある介護の現場。それでも、自分の感性をパサつかせずに、介護する側-される側の境界を縫って、その人の中にある「何か」を見つめようとする人がいる。

もう「終わった」ことだと思っていた若い頃の思い出、大人になってからもどうしても忘れられず、青臭くも旧知の友人たちに一人ひとりまた出会い直し、そこから物語を編み直していったという人がいる。

別にやらなくても生きてはいける。放っておいても当座、社会や集団も大波乱は起きないように見える。だけど、「わたし」は放っておけない。その”はざま”を放置すると、わたしの中で何か大事なものが崩れる気がするし、気づかないだけで同じような思いをする人が他にもいるのかもしれない。

確証はない。でも、わたしは、今ここで手を伸ばしたい。

そういう風にして網の目からこぼれ落ちたものごとを、いじらしくも、効率悪くも、掬って慈しんでくれる人たちがいるおかげで、僕たちの社会はほんの少しずつ豊かさを増していく。

願わくば私もその一員でありたいし、そういう人たちが「大丈夫」って思える場所を守り続けていきたい。