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2F/当番ノート

ふたたび、あたらしい朝を生きることについて 9.º

第44期

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生きていると、ときどき、ひかりが差すような瞬間があり、内からあえかなひかりが発せられているものや、そういったひとびとと出会うことがある。

 

 

「手のひらでそっと土を握り、土のなかにあるかたちに沿うようにして、重力をかたちどるように、時間を結晶させるように、ぼくは作品をつくっている」

友人がそう話すのをきいたとき、一本の木のなかにはじめから在る仏を彫りだす仏師の話を思い出していた。

 

夜を越えながら、わたしたちは信じるものの話をした。

 

ひとびとと一緒に紙をちぎりながら、もしかしたら、最初からねむっているのかもしれない獣を思い浮かべる午后があった。

 

 

 

旅先から、祖母から、この世界のあちらこちらより手紙や、葉書が届く。ちいさなスペースをいっぱいにするように文字が書きこまれている。すこしばかり曲がっていて、たどたどしい、そのひとのかたちをした文字が散らばっている。ひかりのようにうれしさがやってくる。そっと筆跡をたどる。

 

つくりたての詩を、はじめて人前で読み上げたとき、額が、ひかりに触れ、胸のなかをごうごうと風が吹き抜けるようだった。

友人の創作の場で、その日はじめて出会ったように、幾度も出会ってきたように、目の前のひとと指先だけを触れ合わせ、身体やたましいをうごかし、変わらないことばを発しながら、心臓がことりと動くのを聴いた。

 

 

 

 

一枚の絵をまえにし、はじめの、ひと刷毛を思いうかべる。

震え、ふるえながら集まってゆく羊の毛を指先で、手繰り寄せるようにして糸にする。

思いだすように食事をつくる。

土を、かたちをつくりだした熱い炎を、たどるように器に触れる。

春の、はじめより、一層あおあおとみどりを深めた木々と、挨拶を交わす。

 

うつくしいとおもうものをつくること、ことばを書くこと。

 

 

いくつも、いくつもの灯が、繰り返し、灯されることを、わたしはなぜだか知っている。

 

そのそれぞれが、各々の道をたどり、やがて辿り着くための遥かな、道行をおもう。

 

そうやって歩み続けることは、まるで、祈りのようだとおもう。

 

 

 

9.º ふたたび、あたらしい朝を生きることについて

遠野 遥

遠野 遥

1991年生。
くさはらと彷徨をあいする。
writer / natural dye and weaving

Reviewed by
もうり ひとみ

最後と言われて何を書くべきか悩んだことを、ようやく思い出した。
何を書いても同じところに辿り着くことがおかしくも、大きな発見のようにも感じられていた。
少し前の自分の曜日のこと。


最初にこの、連載のタイトルのような言葉を見たときに、
「そうか、ふたたびなのか」と、わたしはひとりごちていた。
ただのあたらしいではないのだ。すでに、経験として、それがふたたびであることを知っているのだ。
「ふたたびやってきた朝」なのか、「ふたたび生きて」いるのか、どちらもなのか。

朝は、長い間、苦しく恐ろしいものだった。
単純に、まだ眠い目を開けることがいやでたまらなかった朝も
うまく生きられなかった一日が終わりまた、やり過ごさなければならない一日が始まる絶望の朝も
朝は何もかもを新しくしてしまう。
もちろんそれにすくわれた日だって。


物事のほとんどに、呪いと祝福を見出すようになって、随分と気が楽になった。
消えない火も
誰かの美味しいも
くりかえす日々も
喜びだけを見出しては歩かれない道も
そのどちらもをわたしに与えてくれる。



いきる、ということにこたえを求めて擦り切れた夜もあるけれど
自分という生きものの輪郭を丁寧になぞるような彼女の言葉。
わたしもあなたが繰り返し灯すことをもう知っている。
誰もがはるかなみちをゆくいきもの
その姿が眩しくいとおしい。

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