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2F/当番ノート

ダンスラブレター2:怪物の気配

第48期

先日、バリ島にある芸能の町ウブドへ行った。

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 町のあちこちにヤシの葉で作られた小さな皿がある。時々家の人が出てきては花や果物を飾り、線香をあげ、パパッと水をふりかけている。道の向こうからはガムランの音。正装した地元の男たちが寺院の前にたむろしているのが見えたので、どさくさに紛れて突入しようとしたら追い返されてしまった。うらめしい気持ちでだらだら集まってくるおじさんを眺めていたそのとき、怪物が見えた。そう、怪物。おじさん達の間をなまはげみたいな奴がのそりのそりと歩いている。怪物にもびっくりだが、怪物がいても全く違和感を感じさせないその場の空気にもびっくりだ。おじさんと怪物が同じ調子で一緒にいる様子は奇妙に自然で、町のあちこちに溢れている祈りがその時間をうみだしているようだった。

 インドネシアといえばシャーマンの宝庫。白状しよう。バリに行くと決めたときから、心のどっかでシャーマンに会ってみたいと思っていた。私の踊りをみた人に「あなた前世はシャーマンね」と言われたからかもしれない。観劇した観光客用のショーで舞踊家がバタッと倒れて演目が終わるという演出が続いた時には、これはシャーマンが儀式の最後に気を失って倒れるやつでは…踊りに翻弄されて倒れてしまう感じちょっと分かる…とミーハー心を震わせた。

 翌日、友人の紹介でバリ舞踊界の大御所先生と対面。とにかくパワフルで、大きな目をくるくると動かす、太陽のような人だ。人が好きなんだろう、こっちがちょっと疲れたなと思うタイミングでかばんから果物をだしてくれる。私の横に座ってマンゴーを剥いてくれている先生に「シャーマンってどう思います?」と聞いてみた。「嫌いね。なりたくもない。私は人と出会い、おしゃべりをして、ダンスを教える生活がすきなの。シャーマンになったら普通の生活が出来なくなるでしょ。それに…踊ることが大好きだから。」先生の言葉が不思議だった。踊りが好きだからこそ、踊りと一つになろうとしちゃうんじゃないの?私は先生の前に立ち、体を動かしてみせた。「こういう風にしばらく体を動かしていると、動きが自分の中に入ってくるんです。私はこれを踊りになると呼ぶんだけど…あんまり踊りになりすぎると自分を失ってしまう気がして…」先生は私の話が終わるのも待たずにまん丸な目をさらにまん丸にして言った。「危ないわ!そんな風に踊るのは危険よ!」「世界にはいい魂も悪い魂もあるの。無分別に受け入れてしまうのは危険よ。」先生は自身も望まないトランス状態に陥ってしまった若い時の話をしてくれた。踊っている最中に「悪い魂」が入ってしまい、意識をなくして何日も寝込んだという。先生は続ける「Feel movements.Don’t lose control.動きを感じながらも、自分自身を失わない。これが大切なのよ」と。

 危ない!と動きをとめられたのは生まれてはじめてだった。この動きはこんな魂と繋がりがあるのよと話す先生の言葉はマンゴーの種類について話してくれたときと同じくらい具体的。祈りに溢れたこの町で、魂はどこまでもリアルな存在だ。

 別れ際、「自分が楽しめること、それが正しい道よ。」先生がそう言った瞬間、私たちのすぐそばで小鳥が歌いだした。まるで誰かが私たちにメッセージを送っているみたいだった。先生はちょっとびっくりした様子でほほ笑んで、その声にむかって投げキスを送った。祈りと踊りは本当によく似ている。

踊りはすでに世界に溢れている。踊りの愛し方はひとつじゃないよ。気づいてあげられさえすれば、そんな言葉がきこえてくる。小鳥はどの町でも歌っているのだから。

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かきざき まりこ

かきざき まりこ

香川県出身。旅人ダンサー。
音楽を聴いては踊りだしてしまう幼少期。
高校までオリンピックを目指して中国人コーチのもと新体操に没頭。
大学でダンスに出会い雷に打たれるほどの衝撃をうける。
大学卒業後にBATSHEVA舞踊団(イスラエル)入団。
三年間のイスラエル生活後、タフさとラフさをみにつけ、LEV舞踊団に入団。世界中の大劇場をまわり、踊る生活。

最近東京のすみっこに部屋を借りる。
世界の大劇場と東京の小さな部屋がつながっていく日々の記録です。

Reviewed by
朝弘 佳央理

もう20年くらい前に読んだ岡本太郎の本のなかに、お面をつけて演じることについて語られる部分があった。
その中で岡本太郎は、演じることは仮面をつけることと同じで、いつもならぬなにか、自分とは違うなにかと一緒になることだが、けれど顔と面の間には必ず少しの隙間がある、というようなことを書いていた。
必ずしも自分の顔と、その面はくっついて一体にはなっていない。演者と演技の間には、その隙間がなければならない。
…つまり演者は演技に飲み込まれてはいけない、入り込むことと同時に引いてそれを見ていなければならない、そんなようなこと、当時の私は解釈した。
(随分前に読んだものだし、私が本質も捉えきれえず解釈したものを覚えているだけかもしれないので、気になった方は探して読んでみてください)

私も踊っていると時々、壁も天井も地面も関係がなくいっしょくたになってしまうようなことがある。踊り終わってみるとあんなに激しく動いたのに、どこにも痣がない。
1秒がうんと長く感じる。未来に仕掛けをしたり、過去の時間をつくりかえたりする。見ていなくても舞台上で誰が何をしているのかがわかる。
そういう一種のトランス状態のようなものがひたひたとやってきて、でもそいつに飲み込まれたりはしない。
私はお面それ自体にはならない。
それ暴れさせ、それが放つことに驚き歓喜しながら、そいつの手綱を引き、お面の内側で共演者(ダンサーや音や空間や時間)と目配せをし、この舞台のゆくすえに耳を澄ます。

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まりこさんの出会いを読み終わってから、小鳥の声が聞こえないかな、と耳を澄ます。
聞こえない。
だって今はもう夜なのだ。
でも今度小鳥の声を聞いたら、きっとまりこさんとバリの先生と、その小鳥のエピソードを思い出す。

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