3/8 アパートがアパートメントだったね、そして春が待ち遠しい。はるえちゃんへ。

管理人室の往復書簡


はるえちゃん。
3月になっちゃった。
2月のほんとに最後の日に、閏日だから今日は特別ななにかね、みたいな感じで大雪が降ったね。
私は会社に行けなかったからすっごく大きな雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり誰も踏み入ってないグラウンドに真新しい足跡をつけたりして、大人としての社会行動から逸脱してみた。
だって閏日だもの。
写真展「apart」に来てくれてありがとね。
あの場でアパートメントの住人の方がちょっと出会ったりするのに立ちあえること、嬉しかったな。
その瞬間ほんとにあの場所がアパートメントのギャラリーみたいになって。
早く実際に住人の方どうしが交流できる場所つくろうね。ソファで寝そべって音楽聴いたり、ああして写真眺めるような。

写真展「apart」のアパートはこのアパートメントのアパートと同じ意味合いを持つのだけれどふたつを繋ごうとして名づけたのではもちろんなくて、今の私が避けて通れないキーワードだったんだろうなあと思う。
はるえちゃんとあのカフェで話したときに雲が雨になるように結実して今でも降り続いている。しずかに、窓の外を。

違うからだを持つ以上同じ感覚をわかちあうことはない。ということは常々考えていて、そこから切なさや絶望も、それから真の思いやりや愛情のようなことも生まれるのじゃないかなという気がする。
「みんなちがって、みんないい」みたいなことばがあるけど、「いい」とかいう前にもう否応なく違うし切り離されている、そこからはじまるしかない。
もちろんこのことばを否定するわけではなくてね、このことばを表面的に受け取って安心しているきらいがあるんじゃないかという気がしたりしてね、いや、それは以前のわたしのことなんだけれども。
ひとはひとりで縦糸を縒っていく、だから横糸が自在に編まれる可能性が出てくるのかなあ、って考えてたらはるえちゃんの「あいうえお」も縦横の構造だな、なんて思ったりした。

はるえちゃんと同じで私もとても緊張するたちでそのうえ話すことが下手ときているから、せっかくお会いできたのにえへへ、って笑うだけでたいした話しかけができなかった、とかなしむことがしばしばだった、あの展示中。
でもね、来てくれたお客さんがあとから「もっと話したかったのに人見知りでごめんなさい」というようなことを伝えてくれて気づいたのだけれど、人見知りな感じがそのひとの魅力になっていたりして何も謝ることはないしきっとそんな部分が素敵だと周りが思っていることを本人だけは知らないのだなあ、って。
私の人見知りもきっとわたしの魅力だ、ということを言いたいわけではなくて(わたしの場合はいい年して人見知りってなんだか情けないかもしれない)、ひとって自分のことはわからないし、だから回り道をするし、その迷っているさまはいいものだな、とそんなことをね、感じたのです。

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アパートメントの当番ノートも、今の住人さんに書いていただくのはもう折り返し地点を迎えちゃったね。
毎日、家に、もちものに、景色に、友だちに愛着を持つように、文章が積もってゆく。
紙の本みたいに陽があたって淡くなった文字をぱらぱらめくれたらいいのに。
ね。
p.s.
はるえちゃんから頂いた桜塩、おにぎりにして食べたよ。
最初なにを考えたか塩したおにぎりに入れちゃってちょっとしおからすぎたけど、2回目からはさくらのかおりを楽しんでる。
ありがとうね。
去年、さくらが待ち遠しかったことを思い出した。
さくらが北の町に春とか色を運んでくれることが、こころから待ち遠しかったな。