4/29 たくさんのしおりのこと、はるえちゃんへ

管理人室の往復書簡


はるえちゃんの背がそんなに高いのはキリンになりたかったからなんだね。
キリンは私も好きだよ。
昔多摩動物園でオレンジの風船を離しちゃったらキリンが弾き返してくれたの。
友だちに「夢だよ」って言われるけど証拠写真もあるんだよ。

なにかになりたい、って願うと、どんなかたちでかそこに近づくような気が私はしている。
特に姿かたち。
どんなことが出来るようになりたいとか、どういう道行きを歩みたいとか、そんなことの方が自分の力が及びそうな気がするけれどそういうものは縁とか運のようなものに左右されがちで、案外顔とかからだのフォルムのようなもののほうが自分で握っておけて、結果長年イメージをしているとそこに近づいたりする、ように思う。
もしかしたら私がそういうタイプだったというだけかもしれないけれど。
映像としてのイメージを強く持つ方だし、からだのことを考える時間が長かったから。

私は小さい時サーカスのひとになりたかった。
一度だけサーカスを見に連れて行ってもらったことがあったけれどそれが影響していたわけじゃないと思う。
たぶん、本を読んでその中に出てきたサーカスのイメージに憧れたのだろう。
照明を浴びてぎりぎりの芸をすることや、旅をしながらとどまらずにきらきらと何かを残してゆくところ。動物も含めて、仲間で過ごしながらずっと砂漠の向こうまで続くこと。
(これはこの何年かでかたちを変えて叶ってる気がする。旅公演多かったから。)
もう少し大きくなってからは宇宙飛行士になりたかった。
それか、星の研究かもしくは染色体の研究をするひと。
生きているうちにたくさんの謎をこの目や手で見て、解りたかった。

 
生まれてからこのかたずっと毎日を過ごしてきて、濃淡は色々あるんだけれど、とりわけ強く引力のある場所とか時があるよね。
まるでしおりを挟んでいるみたいだなとよく思う。
写真はしおりだな。とか。
踊りはそのしおりを仔細に、もしくはちょっと別のかたちに再構築して感じ直すことかもしれない。とか。
そして、そのしおりはほんとうに過去だけにつけてきたものなのかな、と時々思う。
感覚は時間にそんなに忠実じゃない。ような。

生きているってほんとうに不思議だ。
すべてのひとがそんなふうに自分だけのしおりを残してきていて、でもそのひととともにそれは消えてしまう。
そんなふうに何も残らないんだと考えると子どもの頃は悲しかった。
だから究極の謎を研究したかったんだと思う。
遠くて手の届かないことか、近いのに永遠の深さのあることか。

「そのひととともにすべてが消えてしまう」なんてもしかしたら残酷な物言いかもしれないね。
たとえばわたしには葉っぱいちまいも絶対に完全には理解できない、そのことをかなしむのではなくてその終わりのなさというか、永遠に及べないことがあるというそのことを今は尊く思う。
とはいえ、やっぱりその途中でもぎとられて消えてしまうということは、いのちであれ毎日の時間であれ場所であれ、・・そのことを考えるとやるせない。

 
さくらの写真をありがとう。
いつかわたしもそこにいけるかな。