庭師通信1

管理人の部屋

No.63

この夏から、管理人3人も交代でコラムを書こうということになりました。
何を書こうかなあと思いを巡らしているうちにふと、この10月でアパートメントの前身である「いとでんわ」を始めて丸4年になるのだ、ということに気づきました。
今日はその、アパートメントのはじまりについて書こうと思います。
とりとめのない長いながい思い出話になってしまうのですが、お読み頂けたら嬉しいです。

アパートメントを始めたのは震災の年の10月でした。
その頃はまだアパートメントという名前ではなく、「いとでんわ」という名前でした。
アパートメントのサイトの入居者一覧を見ていただくと「当番ノート」が第23期、第22期…と並ぶ一番下に「いとでんわ」第一期、第二期とありますよね。
それが、作った当初のこのサイトの名前でした。

2011年3月11日の東北大震災がおこった時、私は舞台本番を控えて東京墨田区にあるアサヒ・アートスクエアにいました。
「踊りに行くぜ!」という企画で1年かけて作った作品を持って鳥取・福岡・神戸を周り、東京公演はその締めくくりでした。
作品は「終わりの予兆」という題名でした。
その何年も前から、私たちは南淡路や神戸や大阪に踊りに行くことをしていました。淡路島には本がほこりをかぶったままの本屋さんがあったし、長田はその当時阪神大震災の名残の瓦礫や、言いようもない静けさがあった。「終わり」というものはいつ始まるのか、いつか必ず終わるものを変わらないと感じるのは何故なのか、終わりへの意識こそが変化を生むのか、もう成長しないこの身体は終わりに差し掛かっているといえるのか……そんなことから作った作品で、ダンサーは繰り返し服を脱ぎ着しては舞台上に放り投げたり、ひとりごとの書かれたノートを延々とちぎったり、平行線のように会話を続けながら走り回り、混沌がクライマックスに達した中終了してゆく、という内容でした。
夜公演に備えて15分後に照明チェックをしますからダンサーは舞台上からはけてください、というアナウンスがあった直後に地震はおきました。
10mもの高さから照明がいくつか落ちて、頑丈そうな天井からさらさらと粉が降ってきた。
生まれてはじめて、恐怖で足が震えました。
外は、風がとても強くて冷たかったのを覚えている。
混乱が始まる前だったためまだカフェが開いていて、出演者やスタッフ10人で温かいチャイを頼んだ。
冷静そうに見えた店員さんは紅茶を注ぎ忘れていて、私たちは運ばれてきた10個のホットミルクを見て笑った。

震災後1週間、私の最寄り駅は電車が通りませんでした。
会社にも稽古にも行くことができず、わたしは初めて、家の周りを散歩しました。
その家に引っ越してきてから15年間、7時に家を出て18時まで仕事をして、その後稽古をして深夜1時に帰ってくるという生活をしていたのです。
特に震災前の3年間は働きながら週に8本くらいのリハーサルを抱えていて、2週間に1回本番があって、多分3年間で休日は5日くらいしかなかった。
月に1回は39度を越える熱を出していて、それが自分の体質だと思っていた。

初めて眺める家の周りは新鮮でした。
家の周りにはたくさん畑や川があって、農家のおじいさんや散歩中の奥さんとたくさん話をして、たくさん写真を撮った。
オッドアイのポインターと仲良くなった。
両親と初めてお花見をした。
図書館でたくさん本を借りた。

被災地ではたくさんの方が体育館や公民館に避難している状況が伝えられていた。
私は散歩をしながら、こんにちは、と誰にも挨拶できないことに気づきました。15年も住んでいるのにわたしはご近所さんを誰も知らない。
例えば私が避難をしなければならない状況になった時、お隣の奥さんが避難場所に辿りつけなくても私には分からない。私が避難所にいなくても誰も私を知らない。
踊りで地方各地を巡っている時に見た寂れた商店街を思い出した。
商店街でものを買えば、お店の奥さんは私の今日の夕飯のことを想像するかもしれない。子どもの服を買ったら、あそこのお嬢ちゃん最近大きくなったね、って肌着屋のおじさんは思うかもしれない。けれど私は誰が作ったかも分からない服をネットで注文して、誰が包んでくれたかも知らずに包装を破いて、着てる。
何か間違っているのじゃないかな?ということをその時に思いました。

震災後、自分が今までやってきた表現に疑問を持つようになった、とか踊れなくなった、描けなくなった、という話をよく耳にしました。
私の場合踊りと私自身との関係について思い悩むことはないのですが、踊りを見てもらう、ということに関してはやはり色々と悩みました。
命に関わることが問題となっている今、踊りにできることはない。
もし踊りが必要になるとしたらそれはもっと後のことだし、だったら今私ができることはなんだろう?
踊ることしか手にもっていない自分を痛切に感じたのもこの時でした。
私ができることは何か?
毎日ひたすらインターネットを眺めていました。

まだ電車が開通しないある日、会社にも稽古にも行けず誰にも会えずにいたある日、友人が自転車で私に会いにきてくれた。
私の大好きなラナンキュラスの大きな切り花を抱えて。
地震が起きた時何してた?
踊りのことはどうするの?
今、何を思ってる?
これから、どうする?
ずいぶん長いこと話しながら、私は、こうして誰かと顔を合わせたかったんだな、味わったことや考えたことを伝えたかったし、聞きたかったんだな、という風にぼんやりと思いました。

「毎日、友達が何を思っているのか聞きたいな。」
その時にそう思ったのが、アパートメントの種でした。
遠くにいるけど、一緒の時間を生きていて、何かを考えたり悩んだり楽しかったりしてるであろう、その友達の話を聞きたい。
もしかしてそのことは私だけじゃなくて、他の誰かの心の助けになることもあるのじゃないだろうか。
辛いことをふと忘れる瞬間、誰かが何かを踏み出すきっかけ、心が柔らかく膨らむ時間、もう思い返すこともなかったことが蘇る瞬間、誰かにそれを話したくなるかもしれない、誰かに会いたくなるかもしれない。
なんでもいい。
ただ毎日そのことが続くだけで、毎日続くというささやかなことだからこそ、明日もそれを読もうかな、と誰かが思ってくれるんじゃないかな、と。

震災当日中止になった公演は2ヶ月後の5月に再演されることになりました。
けれど私たちは、震災を経験した今、この作品をやることが果たして何を生むのかが分からなくなっていました。
「終わりの予兆」というタイトルや、舞台上に衣服や本や小物が散らかり混沌となってゆく演出は、あまりにも震災を想起させすぎるものだった。
わたしたちは、ある意味ではひとつの終わりのようなものを経験してしまった、といえるのかもしれない。
その中で、この作品をほんとうに上演するのか?
一緒に作品を作ってきた仲間とは大きく揉め、もう一緒に踊りたくない、というようなところにまで話は膨らみましたが、結局出演者と内容を大幅に変え上演することにしました。

私はその後、いままでのようには舞台の仕事を入れないようになりました。(震災後、実際いくつかの舞台は中止になることも多かったのですが)
そして10年間お世話になっていた会社を辞めました。
私は、生活の中心を踊りよりも、写真とアパートメントに寄せるようになりました。

「いとでんわ」を始めた当初、原稿や写真データをもらって私が毎日夕方18時に投稿する、という方法を取っていました。
加えて、毎日私もコラムを書くことをしていたので、2ヶ月間いっさい外出ができないくらい忙しかったのを覚えています。
その後、いわきから岡田陽恵さんが会いに来てくれて、存続を悩んでいた「いとでんわ」を一緒にやろう、と声をかけてくれました。

陽恵は1枚の古いアパートメントの写真を見せてくれて、こんなあったかい電気が灯っているようなさ。と言った。
色んなひとがよそ行きの感じじゃなくて帰ってこれる家みたいな場所。
誰かがお部屋にいたら、灯りがカーテンから透けて見えるでしょ。ご飯食べてるかもしれないし、宿題してるかもしれないし、でもそこにひとがいるっていうのが、例えば会社帰りに見えて、ほっとすることあるじゃない。
私よく夜中にベランダに出てタバコを吸うんだけど、なんか無性に冷たい風に吹かれたくなってベランダで町を見下ろして、ほんのいくつかだけど、人影だって見えないけど、生活してる灯りが見えて気が済んでまた眠るんだよ。
前にね、ベランダで赤ちゃんをおんぶしたお母さんが洗濯物干してて。私の部屋は位置的に影になっててちょっと寒いんだけど、そのお母さんと赤ちゃんが陽にあたって、髪の毛がぴかぴか光ってて、ふたりできゃっきゃって笑ってる。もうこの上なくあたたかそうなの。向こうは私を知らないのに、私はそのふたりの楽しそうな一瞬を見てる。
そんなところ。
なんとかアパートメントじゃなくて、ただ、「アパートメント」が良くない?名前は無い。みんなそれぞれにとっての、ただ、「アパートメント」。
ネット検索しても、他のほんとの住宅に埋もれちゃう。それがいい気がしない?
いつか、ネットじゃなくて、本当のアパートメントを地方各地に借りたい。それで、2ヶ月本当にそこにライターさんに住んでもらうの。住人さんは土地の人と関わることもできるし、住人さんに会いに行きたい読者を受け入れるようにしたら、今まで縁のなかったその土地を訪ねて、その土地を知ったりもできる。

住人の誰かがログインしてると、TOP画面のお部屋の電気がついているようにしたいね。
アパートメントの絵がまずあって、扉をクリックすると3Dな感じで中に入れて、管理人がこたつでみかん食べてるのを横目に、その人の部屋に行って扉をクリックすると、コラムが読めるの。
管理人室の横には回覧板を掛ける場所も欲しいな。誰かの展示のお知らせとか書けるように。
1階にはロビーがあって、そこには暇な人が集まってしゃべってる。読者の方も遊びに来られるようにしてもいいよね。
隣には、共有のアトリエがあって、アーティストはそこで作品を見てもらったり、作品について話したり、後々は売り買いもできるの。

当時(今も)サイトを作るのがどんなに大変か知らなかった私と陽恵のイメージを森山良太さんがなんとか形にしてくれて、アパートメントは始まりました。

(本当は「いとでんわ」を作る前に、日本各地の商店街を訪ねて歩いて、そこで手作りの冊子を作るということをやりたかった…などさらに長いストーリーがあるのですが、今日は思い出話が長くなりすぎたので、割愛。)

それから4年半、私の生活の中心にはいつもアパートメントがあります。

誰かの目に触れてその反応を知ることではじめて、自分が作ったものがなにものであったのかを分かることがあります。芸ごとに関わるものだけではなくあらゆる仕事の領域にも言えることですし、ある意味では自分という人間形成にも当てはまることかもしれません。
私がアパートメントから得ているものや抱く思い、管理人それぞれが抱くアパートメントとはどういうものかという像、住人のみなさんひとりひとりの記事から感じた世界(というと何か大袈裟ですね。社会?世間?自分以外の存在?)との関わりや発信の仕方、読者の方々がそれをどう受け取り、どういう関係でいてくださっているか。

アパートメントを毎日眺めるのはとても楽しいです。
どんな風にものごとを受け取り、咀嚼して、どの段階のものを表したいのか、どのフィルターを通すのか、どの言葉を選ぶのか。
お会いしたことのない方の記事を読んでいると、毎週薄い布を重ねるようにしてその人物像が立ち上がってゆきます。
もちろんこれは、「私が受け取ったそのひと像」に過ぎないのですが、それでも、私の中にはその面影が住むようになるのです。
毎日が重なって変化もして、薄まったり深くなったりしながら続いている、それを改めて包むように持ってみたときに、私なりの「アパートメント」がそこに焦点を結び、膨らんでいます。
 
私には私なりの寄り添い方の結果、今の私なりの「アパートメント」がある。
その自分なりのものとはまた別の「アパートメント」が、接してくれているみなさんの数だけある。
それがとても嬉しいことだなあと感じます。
色々な生業のひとがいて、色々な感じ方、意見がある。
自分という定まった殻の内側を大きく揺らし、もしかしたら殻を破らせるのは、こうした自分とは異なるものの存在です。
友人の存在や、異なる価値観、どなたかの体験や喜びの記述は、自分ひとりでは行けなかった場所にわたしを連れて行ってくれる。
アパートメントは世界の縮図であれたらいいな、という風に思っていたのですが、もしかしたら、生きるということの縮図、と言い換えることができるのかもしれないという風に、このごろ思います。

関わってくださるによって有機的に変わっていきながら、さまざまなものを取り込みながら、枝葉が伸びてゆくといい。
だから私はこれからも、幹や葉っぱの小さな声に耳を澄ましてなるべくのびのびとその樹が育つようにときどきちょんちょんとお世話をする、アパートメントの良き庭師でありたいなと思います。