庭師通信5

管理人の部屋

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「リニューアルをします」と宣言してからなかなか正式にそれが始まらないアパートメントですが、今、管理人たちが額を突き合わせこつこつと下地を作っています。
それぞれが別に仕事を持っているため「空いている時間で楽しみながらやろう!」というのがモットー(?)のアパートメント管理人部なのでなかなかのんびりした足取りですが、長い目でお見守り下さると嬉しいです。
住人のみなさんにもご協力を呼びかけているのに、いつ始まるんだろう?といった様子で申し訳ありません。

アパートメントをリニューアルするにあたり、アパートメントとはいったいどういうサイトなのだろう、何を大事にしたいと思ってはじめ、そしてこれからは何を大事にしていきたいんだろうということを考え、管理人のみなさんとも話しました。
「大事にしたいこと」は自分の感覚の中でははっきりしているのですが、簡潔な言葉にすることがとても苦手なので、散らかってもいいからこちらに綴ってみようと思います。

アパートメントでは寄稿をお願いする際、「自由に書いて下さい」という風にお話します。
「なにか話をして」と頼んだ時に、「なにかって、何?」などと言いながら、それでもそのひとが選んで語ってくれることに、興味があったからです。
「自由に書いて下さい」というお願いに対し、住人さんひとりひとりが「アパートメントってこういうところだよね」「こういうものが見たい」「この人に書いてもらったらどう?」と、それぞれのアパートメント像を持って携わって頂いたおかげで、現在のアパートメントがかたちづくられたように思います。
アパートメントは、いろんな背景を持った方々がそれぞれ
「これまで何を考えてきて、今何を考えていて、この先の世界に何を見たいか」
を語る場所なのかな、というふうに、思いました。

「私が書くことはアパートメントの意見になりうることでなくてはならない」というようなかちかちの思いに囚われたりしてなかなかこの「庭師通信」を更新することができなくなっていたのですが、好きなことや、大事だなと思うこと、みなさんに共有したいと思うような話題があったら、素直に気軽に、更新してみようと思います。

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さて、前置きが長くなりました。
ここからが本文…。

今日はしもとさゆりさんの新着コラムを読みました。
はしもとさんは「お直し」についてのコラムを毎月7日に書いて下さっています。
靴下や服の穴・破れの繕い、古い木のテーブルを削り直して使うこと、取り壊した家の材木を別の家につかうこと…ものを簡単に捨てずに、修理しまた使うこと、昔は当たり前であったその精神についてお話してくださっています。
以下はそれを読んで書いたものなので、はしもとさんのコラムも併せて読んでいただけると嬉しいです。

私も誰かのお直しの跡が大好きである。
お直しの跡を見つけたときに感じる愛おしさのようなものを、どう説明したらいいんだろう。
誰かがその物をたくさん触って、見つめて、工夫をこらそうとしたその時間が、急に見えてくる。
お直しの跡に気づかなかったときには「ただの物」であったものが、急に体温を持ちはじめ、まるで、その物を撫でさすったのが自分であったかのような擬似的な身体感覚を持って息をしだす。
その物を大事にしていた誰かのことを知らなくても、そのひとがどんな「ひととなり」であったかということに思いを馳せる。
大げさに聞こえるかもしれないのだけれど、お直しの跡を見たときの感覚を文章にするとこんな感じ。

むかしから、布や刺繍に興味がある。
やってみたい気持ちだけはいつもあって、刺繍糸だけは集めている。
けれど、描きたい絵が思い浮かばない。
やってみたいけれど何をやったらいいかわからない。
欲求だけはあるのだけれど、服を作りたいわけでもなく、刺繍で描きたい絵もないなら、いったい何をやってみたいのだ?
それが自分でも分からなかった。

沖潤子さんという刺繍作家さんがいらっしゃる。
彼女の作品に惹かれ続けてきたのだが、直接拝見する機会がなかった。
ところが今年夏に日本に2週間だけ帰国できた際に、ちょうど個展が開催されていた。
作品はやはりとても素晴らしく、見ながらからだがうずうずした。
沖さんの作品は、もともとお母様が残された布に刺繍をされたのが始まりという。
繊細な糸の模様のその向こうには、からだがまるごとそこに撃ち込まれているかのような生々しい時間の色気がある。
会場には御本人がいらした。隙間時間にいつでもそうしているのだろう、まるでハンドクリームを塗るような自然さで手を動かして、小さな布に糸を刺していらした。
勇気を出して話しかけてみると手を止めて下さった。
刺繍に興味があること、でも何を描いたらいいか思い浮かばない、むしろ描きたいものは無いのだということ、でも靴下をお直しすることは楽しくて、多分私が刺繍に求めているのはそういうふうに布に糸を縫い込んでいくことで、体ごと布に、その行為に入り込むことなんじゃないか、というようなお話をした。
沖さんは、穏やかに興味を持って話を聞いて下さった。

布をはぎ合わせ、糸でかがって穴を塞ぐ。布が強くなり、古いものが生まれ変わる。そしてまたいずれ擦り切れる。
お直しをしていると、古びてゆくことまで楽しめるようになる。
直し糸がやがては元の布に馴染み溶け込んで、しばらく使っているとまた擦り切れ、穴が空く。時には直し糸が、弱くなっていた布を引っ張って余計に大きな破れにつながってしまうこともある。
そんなことにいちいち学ばせられることも、楽しい。
なにかに長く触っていたり、そのもののことをしょっちゅう考えたりしていると、そのもののことが自ずと分かってくる。
大工さんが木の目を読めるのも、私のおばあちゃんが小豆を美味しく炊くのも、お母さんが赤ちゃんの鳴き声を聞き分けるのも、そういうことだ。
周りのひとからすると不思議なことだけれど、本人にとってはもうそれは見えているものなので、「だってそうなんだもん」という以外に答えようがない。

はしもとさんのコラムを読んで、私の中では、沖さんの作品の中に感じるものと、お直しという行為の中に感じるのはずいぶん近いものなのだ、ということに気がついた。
時間を超えて、その中に入り込んだ人間の息遣いが感じられるもの。
新しいものに目移りしたり、使い捨てたりするのではなくて、ひとつのものを辛抱強く見つめ、分かりたいとつとめ、繰り返し試行錯誤してゆくこと。
そういうものの中に、わたしは人間の色気を感じる。

はしもとさんのコラムを読むといつも、「お直しをしてまでずっと手元に残したいものしか、もう欲しくない。」と考えるのだけれど、実際は毎日の生活に流されて気軽なものに飛びついてしまうこともある。
時間の重み、ひとの跡の重みを、きちんと受け止められるような懐を持って生きていきたい。

沖潤子さんサイト
https://www.junkooki.com/
はしもとさゆりさんのコラム「お直しカフェ」
http://apartment-home.net/author/hsm2/