ウナギ Anguilla japonica

長期滞在者

ウナギ Anguilla_japonica

人間には理解できないような不思議な生活史をもった生き物がたくさんいる。

ウナギはマリアナ海嶺の深い海で生まれたあと、ひらひらと葉っぱみたいな透明の体ではるばる日本(をはじめとする東南アジアの国々)まで、徐々に細いウナギの形に姿を変えながらやってくる。日本に着いたら川をさかのぼり、時には陸を移動して川から孤立した山中の沼にまで棲みついたりして5年〜10年。時期がくるとまた遥か遠いマリアナ海嶺へ、産卵のために還ってゆく。

ウナギの生態の不思議さ、というのはいまさら感のある話かもしれない。今日ほんとに書きたいのはウナギではなく、「土ボタル」のことだ。

土ボタルは正確にはホタルではなくオーストラリアの洞窟に棲んでいるハエの仲間で、幼虫は洞窟の天井から数十センチの粘液つきの糸を垂らすとともに発光して、おびき寄せられた羽虫を絡めとって食べてしまう。糸にきらきらと連なる粘液の雫と、幼虫が発する青白い光は思わず息を呑むような美しさ(テレビでしか見たことないけど)。

そんなハイスペックな幼虫時代を経て迎える土ボタルの成虫時代は、口が無いために何も食べず何も飲まず、ただ交尾して子を残してたった数日で死んでゆくだけらしい。そんな土ボタルの生活史を眺めていると、改めて生き物の生きる目的のようなものについて、自分の考えが間違っていたのではないかと思い知らされる。生き物にとって成熟した成虫や大人が本番で、未熟な幼虫や子どもはその準備期間なのだと思っていた。でも土ボタルたちの生き方はまるで、幼虫時代こそが本番で成虫はおまけのようにすら見える。

ウナギの不思議さの根も、同じところにあるような気がする。かれらの一生は、「目的」や「準備と本番」という考えでは説明がつかない。

きっと、ひとつの命には準備期間と本番の区別なんてない。自分のこれまでを振り返ってみても、溢れんばかりの時間と付き合って、道々の草木のいっぽんずつに目を凝らしていた子どものころだって本番だったし、そういう時間を失ったかわりにたくさんの思いを心の内に醸成している今だって本番だ。生きるには目的がないと不安だし、目的のある生き方のほうが何かを生み出すのにはいいのもわかっている。けれども、そういうのとは少し違う次元で、その時々が常に本番であるという、自己目的化したような生の意識を持つことによってこそ得られるものや感覚もあるんだと思った。