不気味の素。

長期滞在者

鷺系の鳥というのはあの優雅な姿形に反して実はかなり獰猛らしい。
白鷺の生態が気になって動画を検索したら、魚はもちろん、小鳥、
鴨の雛鳥、ねずみ、リス、さらには亀まで食らっている
白鷺やら青鷺の様子をあれこれ見ることができた。
というか、いきなり最初の動画で自らの周りを飛んでいる小鳥を
捕食する映像を見たときはかなりショックを受けた。
(閲覧注意)

小学生の頃、通学路の脇の用水路で大きな食用ガエルが
アマガエルを捕食するのを目撃して、
うわーなんか酷いな共喰いゲロゲーロと思ったのを思い出したのだけど、
この動画を見てそれを思い出した。
で、その他いろいろの小動物を飲み込んでいく鷺の動画をみながら、
そういえば鳥って恐竜の直系子孫なんだよなあ、とか考えていたら、
今度はペリカンが鳩を丸呑みにしている動画を見つけた。
(閲覧注意)

どう見ても共食いに見えてしまうのだけど、
当然ながら本人(鳥)たちはそんな風には思ってはいないだろう。
こういうのを見ると、わりとよく見知っていると思っていたこれらの鳥が
急に恐ろしく不気味な存在に見えるから不思議だ。
猫が小鳥を襲って捕まえるのは残酷な気もするが、それほど不気味な感じはしない。
共喰いのイメージは見てはいけないものを見てしまったような、
気持ち悪いような怖ろしいような、いろんな感覚が入り混じった
不思議さを感じるのだけど、その理由に相当しそうなことが、
フロイトの『不気味なもの』の中に書いてある。

「不気味なものとは、慣れ親しんだもの、馴染みのものであり、
それが抑圧された後に回帰してきたもののことである。」
(フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社)

ぼくにとっての白鷺は田舎の田んぼの中や川岸あたりを
ゆっくりと歩きながら小魚やタニシなんかをつついて回り、
ある種の観葉植物の葉っぱのようなプロポーションで並んだ風切羽根の
鋭いシルエットを見せながら滑空して廻っている、
田舎の平和で退屈な田園風景の一部として「慣れ親しんだ」イメージがあるし、
ペリカンはあまりその生態を目の当たりにしたことはないにしても、
例えばドイツの筆記具メーカーのペリカン社のロゴは
親ペリカンが子ペリカンに餌を与えている体の
いたって平和な印象を与えるものなのだし、
絵本などでもおとなしくて親しみやすいキャラクターであることが多いように思う。
そういうイメージはこちらが勝手に作り上げた、
つまり「抑圧」して、勝手にそういうものだと思い込んでいるものなわけで、
その抑圧過程がなかったなら、確かにぼくも前掲の動画をみても、
へー、そういうこともあるんだなぁ、くらいに捉えて、
不気味さは感じなかっただろう。

この二つの動画を比べて見ると、白鷺の方は残酷さをより強く感じて、
ペリカンの方はより強く不気味さを感じる。
白鷺の方は、愛らしい小鳥を死ぬまでくちばしで挟んで振り回す行動が
より印象深く、「無慈悲」な感じが強い。
一方のペリカンの方は、その無慈悲な感じもあるのだけど、
それ以上にここで丸呑みにされようとしている鳩の生命に対する
「無関心」な感じがより不気味さを増幅しているように思う。

この「無慈悲」とか「無関心」という印象ももちろん
(ぼくという)人間側から見たものに違いないのだけど、
おそらくはその「無慈悲」「無関心」という言葉に関連した、
というかそういう印象が出てくる元になるイメージが
「抑圧」されるようになっていて、そしてその抑圧の対象として
「共食い」にまつわるイメージというのは
当然だろうけど、大きな位置を閉めているんじゃないかとも思う。

そういう意味では『寄生獣』とか『進撃の巨人』の捕食シーンの不気味さも
同じようなところから出てくる感覚なんだろう。

共喰いだけに関わらず禁忌を破るとそこから急激に不気味なものが
姿を現わすというのは、神話や昔話に多く見られるパターンでもある。
イザナギが黄泉の国から逃げなければならなかったのは、
彼が約束を破ったために怖ろしい黄泉の悪鬼や
恨みを持ったイザナミから追われたからだったし、
ペルセポネからもらった開けてはならない箱をついつい開けてしまった
プシュケーは死に取り憑かれてしまったし、
ぼくも以前夢の中で、誰に言われたわけではないのだけど
絶対に動かしてはいけないと感じられる柱を動かしてしまい、
姿は見えないのだけどもの凄く禍々しい何者かがその建物の奥から
猛スピードで迫ってくる、ということを経験したことがある。

だからおそらく、多くの場合、人間には「共喰い」という行為に対してと
そのイメージに対する禁忌が刷り込まれていて、
例えそれが動物であろうとマンガやアニメの中での架空生物のことであろうと、
それに関連したイメージや情景を見ると、
抑圧されていたものが「回帰」してくるので不気味さをかんじるのだろう。
そしてそれは当然、死のイメージに関連しているし、共喰いとなると、
その種全体の死に関連してくる。
不気味さというのは、だから、人間の中にセットされている、
イメージを伴ったアラームシステムみたいなものなのだろう。

そういえば、中世ヨーロッパのメメントモリの運動は
「死の舞踏」と一緒にやって来たのだった。