物事を見る角度

長期滞在者

普段殆ど休みなく働いているので、年末年始はゆっくりと過ごさせて頂いています。とりわけ1年程前に住まいを杉並の静かな環境に移してから、自宅で本を読んだり、調べ物をしたり、少し先のプランについて自由に思考を巡らしたりする余裕が生まれました。

10日ぶりに新宿、四谷の仕事場に行くと、近くで建設中の高層マンションがいよいよ完成に近づいているらしく、購入を希望される方が、現地で内覧をしている姿を見かけます。新宿界隈は高層マンションの建設ラッシュです。仕事場の近くにあるのは、25階くらいですが、少し歩いたところには55階(!)というのが間もなく完成予定で既に完売と聞いています。この近辺のマンションは結構な割合で投資用に外国人が買っているのだと地元の不動産業者から聞きました。そのせいなのか、外から見ると誰も住んでいない様に見える区画が目立ちます。1キロ程離れたところには国立競技場が間もなく解体され、新しい施設をイチから建設するのだとか。平日の新宿通りはこのところひっきりなしに残土を積んだダンプカーや複雑な形状をした鉄骨を積んだトレーラーが通ります。至る所でユンボやクレーンといった重機が忙しそうに働いています。

少し前に、震災後の三陸海岸を定点観測している作家さんが2014年の下半期の岩手県沿岸部のいくつかの町の写真を見せて下さいました。復興復興、とかけ声は良いですが、未だ造成の終わらない海辺べりの町の写真が何枚も続きます。小さなブルドーザーが1台、東京ドーム何個分あるかわからない広大な更地をならしています。これではいつまでたっても終わらない。
ぼくの身の回りには沢山の重機が、必ずしも必要とされていない高層マンション建設のために動き回っている。もう少ししたら、オリンピックの工事もはじまる。本当に必要なところには、重機も資材も職人さんも全然足りていない。
その写真は声を大にそういうことを訴えかけている訳ではありませんが、ぼくが日々身の回りの出来事から感じている「自分フィルター」を通してその写真の群れを眺めるとそのように見えてしまう。

「土地の有効活用」というと聞こえは良いが、この国では、東京では、それは単に上へ伸びることしか考えられないのであろうか。去年の年末に3日程大阪に滞在したとき、天王寺や梅田の巨大な再開発の姿にため息が漏れましたが、それでも大阪というところは、中心部の大きな点と点の間の部分には昭和初期に立てられた重厚なビルディングや、木造の長屋が丁寧に手入れをしながら、使われている一角が数多く存在する。大通りから路地ひとつはいったところには、高層ビル群にかくれて目立たないが、ぽっかりと大きな空が広がる街並があちこちに残り、次のアポイントのために、徒歩で移動する時など、とても気持ちが落ちつきます。大阪の町は東京に比して緑が少ないと言われますが、それを補う、モノトーンのしっとりした味わいのある眺めがいたるところにあります。他方ぼくが日頃いる新宿通り沿いは、古く小さなビルは至るところ取り壊され、いくつかに束ねられ、ガラスを多用して硬質に光る現代的な建築物にあっという間に作り替えられ、枝振りの貧弱な街路樹にブルーのLED電球がぐるぐる巻きにされた景色はとても空しい。(提灯にすれば良いのに!)

自分がつまらないと感じる景色にレンズを向けることはない。なぜなら楽しくないからだ。しかし写真を撮ることが楽しいという価値観で写真を撮ることをやめると、結果として面白いと思えるもの、つまらないと思えるもの、良くわからないものが全てカメラに収まることになります。こういう写真が沢山積もっていって、あらためてその一枚一枚を眺めると、この写真は面白いと感じたりします。

写真の面白いところは、意図せずとも写ってしまうものが含まれることです。写真の作画法としては、引き算の発想というのがあって、余計なものを排除して、主題を強調しましょう、というのが、日本の写真文化には綿々と受け継がれている伝統です。そういう美意識の人には邪魔と映る部分を写真の旨味成分だと主張するぼくのような人間もいます。同じものを観ていても、その人の経験というフィルターを通してみると、様々な意見が生まれることが分かります。
今、大きなかけ声のもとに、金ダライのメダカが同じ方向に一斉に泳ぎだすがごとく固定したモノの捉え方がますます肥大化しているように感じているのですが、写真家や表現者たるもの、ぐっと立ち止まって、世の中の様々な現象に違った角度から価値感を提示する。今の世の中見方を変えるとこんな風にも見えるのかと。
そういったものを受け止めることが出来る世の中になっていけば、先日の訳の分からないsuikaの大騒動のようなことも起こらない様な気がする。