解決しない、とは

長期滞在者

「私のことわかる?」娘さんは面会に来る度にそれを確認する。施設で生活している母親のことを気にかけ、月に一度は遠方からはるばる訪ねてこられるのだ。
当の本人は〝馬鹿言わないでよ〟といった感じで「わかるに決まってるじゃな〜い。」と娘さんの肩をピシャンと叩いて笑う。
野々村家のささやかな団欒。
あっという間に別れの時はやってくる。「ありがとう。遠いのに悪いわねぇ。また顔でもみせに来てね。」涙を流す野々村さん。毎回、娘さんの後ろ姿がみえなくなるまで手を振り続ける。
「そろそろ戻りましょうか。」僕がそう声をかけると「あら、散歩に行くんじゃなかったの?」と、まだ涙の乾かない潤んだ瞳をこちらに向けた。「いま娘さんを見送ったところですよ。」そう答えると「娘?あー、もう何ヶ月も会ってないわねぇ。少しは顔みせてくれたっていいのに。まったく寂しいもんね。」ふぅと溜息をつき「でも、あの子も忙しいから仕方ないのよ。」と自らを納得させるように呟いた。

思い出されることなく繰り広げられる〝今〟があるだけ。

そうなの?

と、いつも疑問に思う。
だからと言って

違う。

と、断言することも僕はできずにいる。

「主人はどうしたのかしら?」と尋ねられたので、既に亡くなっていることを伝えると「そんなはずないわよ!今朝も会ったもの!」と興奮するおばあちゃん。

ここがどこなのか突き止めようと片っ端から扉という扉を開けまくり、やがてなにをしていたのかも忘れて疲れてソファにへたり込むおばあちゃん。「どうしたの?」と声をかけると「それがよくわからないのよ。」と蚊の鳴くような声で囁く。

入浴中、うんちをしながら「あー、なんか汚れてるぞぉ。おーい、ゴミが浮いてるから掃除してくれぇ。」と大声で呼ぶおじいちゃん。

テレビの中でニュースを読みあげるアナウンサー相手に「ねえ、ちょっと、、日本は今どうなってるの?我々はいつまでここにいたらいいの?ねえったら!どうして答えてくれないのよ!ちょっと!こっち向きなさいよ!」と必死な形相のおばあちゃん。

先日のお誕生日会で撮影した記念写真。そこに写る息子さんや奥さま、自分自身のことを指差しながら「これは誰かな?」と尋ねてくるおじいちゃん。

「あそこのドアを出て左に折れたら私の家よね?」を一日何十回も質問するおばあちゃん。

ゴミ箱がトイレになったり、洋式トイレがお風呂になったり。いろんなことがわからなくなってしまっている自分にがっかりして「わたし、もうだめね、、」と肩を落とすおばあちゃん。

「主人はどうしたのかしら?」と尋ねられたので、既に亡くなっていることを伝えると「あら、そうだった?やーねぇ、そんなことも忘れちゃうなんて。」あっけらかんとして自分の部屋に戻るおばあちゃん。

唱歌の「紅葉」を歌いはじめると決まって詞もメロディも徐々に創作になってゆくおばあちゃん。

ごはんやおかずは激しく咽せるのに、甘味ものになると大きな口でパクパク食べる寝たきりのおばあちゃん。

「あと一ヶ月戦争が長引けばボクも特攻隊で死ぬとこだったよ。あんた当時は着陸の訓練はしないの。突っ込むことしか教えてくれないんだから。あんときは死ぬのが怖くなかったんだよ。馬鹿だねぇ、国のためだと信じてたからねぇ。危うくボクも靖国行くところだったよ。」おじいちゃんの得意話を、本日一六回目にもかかわらず新鮮に聞き入るおばあちゃん。

テレビに映し出された五歳くらいの幼子に「かわいいわねえ。坊や、どこから来たの?」と優しい声であやすおばあちゃん。

夜中にイチゴジャムを盗み食う糖尿病のおじいちゃん。

おばあちゃんのポケットからやたらと出てくるティッシュペーパー。

一日中、ぼーっとしてるおじいちゃん。

この光景を不幸にしているのは何かを模索しているわけでもないし、この光景を幸せなものに変換させたいわけでもない。
誰にも、似たような全く違う人生があり、たまたまその道の上に認知症があったというだけ。きっとそれだけ。人によっては他の病気かもしれないし、事故による怪我かもしれない。ただただ健康な人だっているだろう。
ある人の脳はこんなふうに萎縮して、あんな生き方がこんなふうに影響して、様々な事情がある中で、こんなふうに生活しているから、その人はこうしている。

正確な定義なんかできない〝一塊の人生〟に想いを馳せる。それ以外なにができるだろうか。

答えがないと知りながらも答えらしきものを全力で探す。答えがあると確信した時点でそれは介護ではなくなってしまう。

野々村さんは、ご主人の遺影の前に立ち「この人は誰?」と僕に尋ねてきた。両親のことは覚えていても、ご主人やお子供さんのことを忘れてしまう人は少なくない。悲しいことだけど、悲しいことなのだろうか。時々よくわからなくなる。
僕が「この人ってすごく男前だよねえー。」と遺影の写真を指差すと、野々村さんは「確かに、いい男ねぇ。」と、うんうん頷く。「実はね、この人はね、野々村さんの旦那さんなんだよ。」秘密を打ち明けるような調子でそう伝えると「あら!ほんとう!?」と目をまん丸くして、もう一度写真を見直す。「そう、、」と声を漏らし、少し嬉しそうにはにかむのがみえた。「かっこいい人と結婚したんだねえ、やるねえー。」僕が肘で小突くと、野々村さんは「まあ、あなたも精々がんばることね。」と、冗談を言って笑った。