関わる、とは

長期滞在者

僕が住んでいるアパートから電車で約一時間のところに父と母が暮らしていて、同じ敷地内に祖母の家もあった。実家にだってたまにしか帰らない僕は、大人になってから祖母の家に立ち寄ることはほとんどなかった。

昔、僕はおばあちゃんっ子だった。祖父はすでに他界していたので写真でしか知らない。共働きだった両親は、僕たち姉弟をよく祖母の家に預けていた。祖母はしっかり者でサバサバしていて、豪快によく笑う人だった。
そんな祖母も歳をとり、ボーッと無表情でいることが増えた。今から七年前だから、祖母が七八歳の頃。大きな怪我こそしなかったものの、よく転倒するようになったのもこのあたりだ。だけど、父も母も歳のせいだと気にもとめなかったらしい。

三月にしては暖かい陽気が続いていたある日のこと。祖母は日課になっていた午後の散歩に出かけ、そのまま一時間経っても二時間経っても戻ってこなかった。父は仕事でいない。母は心配になって近所を探し回った。が、見つからず、いよいよ警察に連絡しようとしたそのとき、電話が鳴った。病院からだった。祖母は近所で転倒し、それを通りがかりの人が発見して病院まで連れてきてくれたのだという。上唇を三針縫う怪我をした。
一安心したものの、ここ最近やたらと転ぶので〝脚が悪くなったのかも〟と、かかりつけの内科の先生に診てもらうことにした。先生は「パーキンソン病の可能性がある。」と専門医を紹介してくれた。大きい病院で様々な検査を受けた結果、やはりパーキンソン病と診断された。

薬を飲みはじめて一週間経った頃から、祖母は「虫が飛んでる!」と騒ぐことが多くなった。母が「虫なんかどこにいるの?どこにもいないわよ。」と否定すると怒り出し、時には手をあげることもあったようだ。そして夜中に手足をバタバタさせるような奇行が目立つようになった。
そのことを先生に伝えると、薬の副作用かもしれないと薬を変更。それでも症状は改善されない。すると今度は抗精神病薬と睡眠導入剤を追加で処方。その結果、身体はさらに固くなり、振戦(指先などの震え)も目立つようになってしまった。
やがて手助けなしでは生活することが困難になり、母は祖母の家に寝泊まりするようになった。
そんな状況が何ヶ月か続き、季節は夏に。祖母は誰も座っていない椅子に向かって「あなたどこから入ってきたの!出ていきなさい!出てけってのがわからないの!」と、興奮するようなことが頻繁にみられるようになっていた。
僕はお盆で帰省した際、初めてその現状を知り、すぐに認知症の専門家を受診することを勧めた。そうして、ようやくレビー小体型認知症だということがわかったのだった。

父は施設入所には反対の人。なので、在宅での介護が続く。母一人では大変だということで、僕や比較的近くに住んでいる姉も休みの日にはできる限りサポートをするように努めた。

幻視がみえているときには否定せず、祖母のみている世界に入り、虫を追い払うふりをして「もういなくなったよ。」と安心させる。「誰かいる!」という訴えも同じ。「じゃあ、ちょっとみてくる。」と、玄関まで行って「郵便屋さんだったよ。もう帰ったみたい。」など対応したり、ときには一緒に見回りをしたりして、タイミングを見計らってさりげなく別の話題に切り替える。
この〝受容からの場面転換〟は認知症ケアの基本だけども、幻視そのものは対処しきれるものではないのでどうしても薬の調整は重要になってくる。

「もうしわけないねえ。」と労いの言葉をかけてくれていたかと思うと、「トイレなんか行きたくないっていったでしょ!!噛みつくわよ!!」と便にまみれながら怒鳴りちらし、その言葉通り獣のように噛みついたり引っ掻いたり殴ったり蹴ったりしてきた。母と僕の腕は、祖母の噛み跡で青痣だらけになってしまった時期もある。
父はそんな変わり果てた自分の親をみたくないと避けていた。残されたのは母だけ。僕は仕事で培った技術を伝えようとしたが、母は助言よりも慢性的にたまっている鬱憤の捌け口を探すのに必死だった。

嫁姑の関係は決して良いとはいえなかった。父は単身赴任で家をあけることが多かったので、母は我慢することで祖母との関係を保っていた。
両親が若い頃には金銭的に苦しい時期も長く、母のお腹に僕がいた頃、祖母は「うちの嫁は金もないのに子供ばっかり作って、なんの気になってるのかしら。」と、母にわざと聞こえるよう、近所のおばちゃん連中相手に嫌味を言っていたらしい。母はそのとき受けた傷を〝今になっても許せない〟と僕に打ち明けた。
祖母の介護をすることがなかったら、そんな話を聞くこともなかっただろう。〝いろいろあるなあ〟と思った。と、同時にしがらみの渦中にある家族介護の難しさを痛感した。家族からしたら、つながりが密すぎるがゆえに出来ないこともあるし、介護される側からしても身内だからこそ素直に頼れないこともある。仕事は時間や空間、そして関係に区切りがあるのに対して、家族のお世話は四六時中休みなしに続くのだ。そしていつ終わりがくるのかもわからない先の見えないはなし。

うまく薬さえあえば進行を止められるケースもあるというレビー。だけど、祖母は六年で全介助状態になり亡くなった。
最期の半年は誤嚥性肺炎で入退院を繰り返し、その頃には骨と皮のようになっていた。軽く擦っただけで破れてしまうような脆い皮膚、手足は浮腫で倍にまで膨らんでいた。叫び声をあげる力もなく、唯一口にしていたアイスも食べなくなった。
最後の退院から八日目の夕方。僕は夜勤明けで実家に戻っていた。仕事の疲れでウトウトしてたところ強張った顔をした母に叩き起こされた。目を閉じたまま眉間に皺を寄せ苦しそうな祖母。その表情には似つかわしくないほど清々しい冬の夕陽が窓から差し込んでいた。祖母に呼びかけても反応はなく、呼吸は荒々しかった。僕が「やばそうだから早く帰ってきてあげて。」と父に電話をしている間に息をひきとった。看取ったのは母だった。

葬儀のとき、親類や友人たちは変わり果てた祖母の姿をみて哀しみに暮れていた。父は「もっとなにかしてあげたらよかった。」と後悔の言葉を呟き、母はそんな父に「今更遅い。」と言った。そして僕に「ああやって泣いてる人たちをみると白々しく感じちゃうの。私は悲しいなんてこれっぽっちも思えない。安堵感しかないわ、今。」とバツが悪そうに苦笑した。僕は「おつかれさまだったね。」と母の背中に触れた。

ずっと昔から、そして介護している間も、祖母を疎ましく思っていた母。それでもお世話し続けた母。その気持ちを計ることなんてできないけど、、棺に納められたメッセージボードの片隅に、母の綺麗な字で『もう痛い思いしなくて済むね。今まで一緒にがんばったね。』と書かれていたのを、僕はきっと忘れない。