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3F/長期滞在者&more

根本遊戯のココロ。

長期滞在者

うーむ。
この3月は何やらいろいろ収穫の多い月だった。
ような気がする。

以前、やっと成形が終わってホッとしている、と書いた、
やきもの仕事の本焼成が二月半ばすぎにやっと終わったのだけれど、
その直後にプチ・バーンアウト状態になったのもあり、
3月前半は2週間の休暇を取ることにした。

1月に訪れたフランスのメッスに再び向かい、
今回は坂本龍一x高谷史郎によるライブコンサートを鑑賞し、
その後で、もともと行く予定にしていた翌週のパリで、
坂本さんの直近の活動を含めたドキュメンタリー映画「Coda」が
たまたま上映されているのを見ることができたのは、
僥倖とも言える特別な経験だった。
コンサートの方は、
坂本龍一というアーティストの思想が
「async」というアルバムのタイトルに凝縮されているんだろうなぁ、
ということを
若き俊才、古舘健くんのプログラムでマニピュレートされた
高谷史郎さんの映像とリンクした演奏を聴きながら
瞑想するように思索し続けた2時間ほどだった。
精粗、大小、東西、悲楽、長短、とか。
両極の間に無数にある星のような任意の点を
タオの達人のような所作で踊り渡って行くような思想。
そしてそんな風に思ったことを「Coda」を観ながら
裏付けを取って行った感じ。

今回のパリ滞在中には様々な有意義な出会いがあったのだけど、
たまたま入った日本の現代工芸品などを扱うギャラリーの
店長さんがやはりメッスでのコンサートを聴きに行っていたことが判明し、
さらには共通の知り合いが何人もいることもわかり
双方とも驚きながらも、大いに話が盛り上がったのときは
小旅行とはいえ、旅の醍醐味を味わえた感じがした。

出会いといえば、某日本人ファッションデザイナーさんの知己を得られたのもよかった。
ここ数十年のファッションの世界の一線で活躍されていた方で、
彼から80年代のサン・ジェルマン・デ・プレ界隈の様子を
カフェ・ド・フロールでランチを頂きながら触接聞けたのは刺激になったし、
彼自身がとてもエネルギーの強い人なので、生きて行く糧を少し分けていただいた気にもなった。
(勢いで彼のブランドのジャケットを買ってしまった…)

とはいえ、ぼくはあまりファッション業界のことには興味はないし、
興味があるデザイナーがいても、
その動向をフォローするようなことはあまりない。
そういうぼくにとってもなんとなく特別だなと思える
マルタン・マルジェラの展覧会を
滞在中のパリでやっていたので見てきた。
ぼくの周りのセンスのいい女性たちがこぞってファンなのもあり、
以前、アントワープのモード美術館に彼の展示を見に行ったことがある。
その時の展示を見てかなりびっくりさせられたのを覚えている。
その時は、ファッションというより現代アートに近いじゃん、と思ったのだけど、
今回の展示でもその印象は変わらなかった。刺激的。
アントワープで見た展示とは違って、
時系列に沿っての展示だったので、
彼の作品の発展過程がよくわかったし、
彼の(陳腐な言い方だけど)「遊び心」みたいなものが
どの辺にあるのかも感じられてよかった。
やっぱりこういう人は「根っこ」を見てるのだなと思った。
ファッションならファッションの服飾ということの根本を
ちゃんと眺めながら、常に疑問を発しながら
その疑問の上で遊んで見せることを楽しんでいる感じ。
そういう感じは「Coda」を見て坂本さんの
音楽に対するアプローチに感じたものに通じているなぁとも思った。

物事の根っこの周りで遊んでいるという意味では
まさにそこを突き詰めまくったと思われる
アニメ作品が今期放映されていたんだけど、
つい先日最終回を迎えたので、ちょっと寂しい思いをしている。
とはいえ、このアニメの場合は
ハイファッションやハイアートなどとは
真逆な感じで初回から最終回まで遊び倒して、それゆえに
ある種の敬意を込めたニュアンスで「クソアニメ」と称された。
その名はもちろん「ポプテピピック」。

原作も読んだけど、原作の四コマまんが自体、
まず起承転結みたいなの基本(だと多くの人が思ってる)形式を
コケにした構成になっているし、
もちろんそれだけではなく、
いわゆる二次創作のオンパレード。
オリジナル信仰なんてクソだということを改めて確認させてくれる
という意味でも絶品の「クソ四コマ」。
アニメバージョンでは、よくぞここまで!と称賛したくなるほど、
原作のアイディアや性質を拡張しまくり、
起承転結どころか、作画枚数とか、
コマからコマへの動きの整合性とか、
登場キャラクターの形態自体が崩壊しているとか、
有名声優をやたら無駄遣いしているとか、
原作を超えまくっている二次創作性とか、
(最終回で三石琴乃が「目標をセンターに入れてスイッチ」
をぶっ込んできたのは本当にマジで吹きました。)
あえて諸々ぶち壊しながら作っている感がすごくて、
むしろ清々しいくらいだった。

ということで、清々しく2018年の3月も過ぎ去っていっているのだけど、
そして、これを書いている今日からヨーロッパでは夏時間に切り替わったのだけど、
いかんせんまだ寒い。
せっかくパリで買ったジャケットも着る機会がない。
せっかく覚えたエイサイハラマスコイ踊りも外で元気に踊る気にならない。
せっかく一転したはずの心機もさらに一転して元の木阿弥の気配。

うーむ。やる気がどんどんどこぞに流出して行ってる気が…
実感を伴った春を大至急大支給よろよろしくしく。

ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

Reviewed by
カマウチヒデキ

今回のひだまさんの文章のテーマは「根っこの周りで遊ぶ」。

完璧な円環を描いたグールドのゴルトベルク変奏曲に対抗して高橋悠治が訥々と音の組みから解体してしまった同曲の録音(2004年のほう)とかが思い浮かぶかなぁ。
完成形を提示したグールドに対し、音楽の生まれる瞬間の延々の積み重ね、みたいな形で円環を否定する高橋悠治。

言葉で言うなら最近の伊藤比呂美の諸作だろうか。
言葉が生まれる瞬間の延々の積み重ね。生まれて書かれて生まれて書かれて生まれて書かれて生まれて書かれて生まれて書かれて生まれて書かれて血のような言葉が絞り出る。記号と記号をつないではじめて「ことば」が誕生した瞬間に延々立ち合い続けるかのような。初期の川上未映子とかもそうだったかも。

ひだまさんの引用する「クソアニメ」を僕は知らないから、なんとも言えないんだけれど、でもあらゆるジャンルの表現において、自分の立つ足場に疑いの目を向けたことがない表現というのは、総じてつまらないものである。
根っこへ降りてみる。その根っこを考え尽くす。ゆさぶりをかけてみる。
ゆすって崩れる場合もあり、ゆすって強固に固まる場合もあるんだろうし。

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