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3F/長期滞在者&more

10年ひとつまみ。〜唯識派からポプテピピックへ〜

長期滞在者

もう10年ほども前のことになるのだけど、
当時、仏教の瑜伽行唯識派に興味があって、
それに関する本を読みまくってみたり、
その片鱗みたいなものに触れられはしないかと思って
とうの昔に仏教が衰退し切っているインドにわざわざ行ってみたり、
知り合いのツテをたどって日本の法相(唯識)宗の興福寺のお坊さんに会いに行ったのだけど、
その人に比べてあまりに何にも知らないのでものすごくバカにされて追い返されてみたり、
(というかその日の夕方からちょうど興福寺の境内でジャニーズ系のアイドルのイベントがあり、
その準備が忙しくて、ぼくのような門外漢を相手にしている暇はないんだよということでもあったらしい。
ぼくをそのように門前払いにしたその若いお坊さんを今更ディスってるわけではない、たぶん)、
自分なりにいろいろとリサーチを重ねたのだけど、
結局、大したことは理解できずじまいで、
残ったのは、「種子(しゅうじ)」と名付けられた、
記憶を形成する分子みたいな、C.S.パースのいうところの「記号」みたいな、
ルクレティウスが世界を構成する原子のメタファーとして使った「文字」みたいな、
そういった感じの、ある意味、細胞のような情報のまとまりが、
意識の根本にある阿頼耶識の中で大量に蓄積されながら海流のようにうごめいている
そんなイメージと、
その海流の奥底の方で「種子」をもとに形成された「想」が
鯨のように時折その阿頼耶識の海面から飛び出してくる、
そんなイメージと、
その鯨が群れとなり、
その群れ自体が一つの別の潮流のように流れ始めて、
「意識」となり、
その潮流の中で様々な世界の像が出現していき、
その世界の像が人間の感覚器官とその「五感」を通して
外部に投射され、それが直ちに「世界」として五感を通して、
認識され、その認識が「種子」を生成し、
それが阿頼耶識の記号の海に貯蔵され、
この過程がぐるぐる螺旋状に繰り返される、
そんなイメージくらいのものだった。

なので、その僅かなイメージをもとにして、
「Inner Ocean」というソロダンス作品を作ったのだけど、
あまり思ったほど面白くはならなかった。
そしてその後、その作品をデュエットバージョンにして発表したのが、
2011年3月、東日本大震災の6日後で、
思えば、その後、舞台作品を作っていない。
デュエットバージョンは面白くなりかけていたので、
それに手を加えられずに来てしまったのは
改めて思えば、惜しい気もする。

こんなことを思い返してしまったのは、
あるアート関係者から「コレクション」ということで、
何か発想することはないか?
とお題を投げかけられたからで、それ以来、
そういえば、阿頼耶識は膨大な記憶のコレクションと言えるのじゃないか、
意識は壮大な経験や記憶のコレクションで形成されていると言えるのじゃないか、
そういう意味では意識というのは小さなオブジェクトで形成された
大きな「風景画」のようなものと言えるのじゃないか、
そういう意味では、アルチンボルド的なものは人の意識と
風景、ランドスケープを相似性でつなぐ何かがあると言えるのじゃないか、
ということは、マニエリスムが意識の構造と関わりがあると言えるのじゃないか、
つまり、ちょっとだけつまみ読みしたまま放置している
『迷宮としての世界』なんかは絶対に読まなければならない本だと言えるのじゃないか、
いや、ちょっと待てよ、マクロの世界とミクロの世界では見える風景が違うというのは、
古典力学の世界と量子力学の世界で描かれる風景が違うのと似ていると言えるのじゃないか、
もっと突っ込めば、「オリジナル」のネタを想起させながら、
そのイメージをブリコラージュしながら二次創作物を構成する、
例えばアニメの『ポプテピピック』の手法なんかはマニエリスムや意識の構造に
どこかで通じるものがあると言えるのじゃないか、
などなど、いろいろ言えるのじゃないかと思えるのじゃないかと思えることが、
このお題のおかげでたくさん出て来た。
そういうわけで、「意識」ってテーマはまだ結構使えるテーマかもしれない、
と以前の作品について思い返してみることになったわけです。

もしかしたらだけど、どんなフォーマットになるかもわからないけど、
ぼくはもしかしたらまたちょっと舞台寄りな作品に取り組むかもしれないのじゃないか、
そんな気がちょっとしたりしなかったりしている今日この頃です。

ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

Reviewed by
カマウチヒデキ

意識とは何か、みたいな話は、昔からいろんな推論がなされてきただろう。
仏教のことはくわしくないけれど、各派あれどブッダの昔から意識とは何か世界とは何かみたいなことを延々考え続けてきた宗教のはずである。
膨大な叡智が、膨大な時間を潤沢に使って、この巨大な謎について考え続けてきただろう。
細胞のような情報のまとまりが阿頼耶識の海流の中でうごめき、海面に現れ、感覚器官を通じて世界に放たれ、五感を通して認識されたそれがまた阿頼耶識の海に潜る、その反復が意識であるという、これだけ難しい話を簡潔に、かつ美しく説明できてしまうひだまさんの文章力に舌を巻きつつ、情報のまとまりが海流の中でうごめき伝播する様子を仮ビジュアル的に想像してみたら、シナプスの間隙を伝達物質が走り順送りに信号のさざなみが拡散されていく模式的想像図と重なったり、心とは脳内の情報の循環を事後的にモニタリングする機能のことである、みたいな新しめの脳科学ときちんとリンクするように思えたり、いやはや精査機器も脳科学もない時代に内省の蓄積のみによって最深部に到達した人間の凄さにほとほと感心してしまいます。

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