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3F/長期滞在者&more

長期滞在者

折坂悠太さんのライブをみた。
目をあけていると、きょろきょろしてしまうので、時々、目を瞑った。

「つもる話の山肌を/ひとつ語らず下って行く/茜色した街並みを/時々見下ろして」
「見慣れないものだけの朝/懐かしいものだけの夜/茜色したおれのこと/思い出せるかい/思い出せるかい」(茜)

語らぬことを自ら選んだひとつ、語る言葉に成り得なかったひとつ、案外、そういう言葉こそがいつまでも残り、一緒に見た景色を焼き付ける火になったりもする。
「つもる話の山肌」というフレーズが、あまりに美しくて、毎日乗るフェリーの窓から見える、低い山々の線を辿り辿って口ずさむのが、癖になってしまった。

遠く、遥かに広い草はらを駆けてゆく、しなやかな獣のような歌い姿の、この人は、どこから来たんだろう?

『椿の海の記』を読んでいて、みっちんが、自分のうしろから無限にくっついてくるような、終わりなく増え続けてゆく数のバケモノにおびえるのだけど、あの、冷やり、と背中を走る何かが、かつて自分のすぐ後ろにもくっついていてことを思い出した。
そういう、何か、途方もない問いを折坂さんの歌にも感じて、子供の頃のそれは、お母さんの腕をきゅっと握って存在を確かめたくなるような恐怖だったのだけど、今はそこにふしぎな安心を見出していることに気付く。

温度のない、絶対性。
ひたすら問い続けたとしても、それを途中で投げ出したとしても、答えにたどり着いたとしても、わたしがどうあろうと、真実は揺らぐことがないという安心だ。

繰り返せば、分かるかもしれない、何か変わるかもしれない、そういう期待を持ちすぎているようにおもう。努力すれば、もっと注意深くあれば、分かるかもしれない、人のこころが。そうすれば、誰のことも傷つけずに済む、傷つけることで、自分が傷つかなくて済む。

わたしの視野は狭く、勝手に息苦しくなっている。

折坂さんのライブは、そんなところへ、風を通してくれるようだった。

ライブへ行ったのは、その数日前に、メリーゴーランドのじゅんさんに会ったことが大きい。メリーゴーランドは本店が四日市にある絵本の専門店で、じゅんさんは京都店の店長だ。

去年の終わり頃から、書店での仕事を辞め、小豆島に通いながら、本と雑貨を扱う店を運営している。まだ本屋とも雑貨屋ともいえないような状態なのだけど、そこで、町の図書館友の会の方を中心に、時々読書会を行っている。
その会にいつも参加してくださるMさんという方がとにかく面白い人で、小学校や施設での絵本の読み聞かせを行い、落語を勉強し、英語を勉強し、地域の、主に子供たちのための行事を企画、あるいは運営を任され、いつお会いしても予定がびっしり。この人に会って元気にならない人はいないのではないかと思うくらい、パワフルで、愛にあふれた人なのだ。

Mさんは、メリーゴーランドを立ち上げた増田さんと古い友人で、毎年、増田さんやじゅんさんを小豆島に招いている。今回は、わざわざうちの店を待ち合わせ場所に指定してくれたらしい。「夏葉社とかミシマ社とか、いい本がいっぱいあってね、応援したいんだよ」と、じゅんさんに紹介してくれるMさん。手には夏葉社の『かわいい夫』を携えていて、「うちで買ってくださいよ!」と言うと、「いや~、置いてないかと思って~」と笑っていた。

仕事の休憩の時間を使って、図書館で行われるじゅんさんのトークイベントに参加した。

そこでじゅんさんは「子どもが文字を読めるようになるのが、早ければ早いほど良い、という考えは、本当なんだろうか?」と話してくださった。「文字が読めるようになると、絵本を読み聞かせていても、目が文字を追ってしまう。絵を見ながら、頭の中で物語を立ち上げてゆく時間を、もっと大切にするべきではないか」

耳で言葉をたどり、絵を見ながら物語を立ち上げてゆくような想像力の使い方を、だんだん、忘れていっているような気がする。想像の余白がなく、目の前の変化を処理することに必死でいる。表情や声のトーンをできるだけ正確に分析できなければ、相手を不快にさせてしまうような気持になって、慎重に、注意深く言葉を選ぶけれど、それでも、伝え方を間違える。

言いたかった言葉と、言わなければよかった言葉、言葉しかないあたま。

じゅんさんが、「日本の宝だと思う」といって紹介してくれた絵本『カボチャありがとう』は、どんな感想もしらじらしくなってしまうような、言葉を寄せ付けない力があった。「感動した」も薄ぺらい、「もっと食べ物を味わって食べよう」も違う、ただ圧倒的な、色があり、線があり、手触りがあった。

折坂さんのうたにも、感触がある。
じゅんさんと会ったことで、触ってみたくなった、折坂さんのうたに。

「感動は、複雑なもの」だとじゅんさんは言う。
言葉で言い表せないときは、その、言い表せない感じを、心ゆくまで味わい続けてみればいいのだと思う。なかなか、分析というか、文字情報に変換しようとする癖、みたいなものが抜けるのは難しいけれど、放っておけば忘れてしまいそうな感情の肌触りを、飽きるまで確かめてみることが、今の自分にとって大切な気がしている。

山をやまとしてでなく見てみたい。海をうみとしてでなく、鳥の鳴き声をとりのなきごえとしてでなく、感じてみたい。ともだちもしんゆうも、こいびとという名前も取っ払って、あなたとわたしとして付き合ってゆきたいと思う。

そんな在り方でもいいと、言われたような気がした、最近の話でした。

中田 幸乃

中田 幸乃

1991年、愛媛県生まれ。書店員をしたり、小さな本屋の店長をしたりしていました。

Reviewed by
小沼 理

言葉をめぐって揺らぐ中田さんの文章。言葉ですべてを言い表せるか? という問いは、ライターという仕事をしているとどうしても考えてしまう問いだ。その答えは自分の中でも二転三転していて、最近また「できる」モードに入った。ただ、それはこれまでとは少し違っていて、視点が広くなった感じ。ある日まったく新しい文体が誰かの手で発明されて、その時、これまでに言い表されることのなかったものごとが美しく記述されるのかもしれない。それが自分にできるかどうかはあまり問題ではなくて、もっと大きな言葉への信頼から、「できる」モードに入っている。

それは「できない」と対立しない。言い表せないことは思考停止ではなくて、判断の保留だ。保留しているうちに、その時はうまく言えなかった思いが発酵したり、見えていなかったことに気付いたりして、少しずつかたちになっていく。そうなるためには「言い表せない感じを、心ゆくまで味わい続けて」みることが大切だ。

今は言葉にも速度が求められることが多いけど、それができるのと同じくらい、言い表せないこととじっくり向き合えるのも、才能だと思う。語られなかった言葉が繋がる瞬間を、待ちつづける才能。複雑な感動を解き明かし、再び紡ごうとする勇気。人が詰まったり、迷ったりしながら話そうとする姿はいつも胸を打つ。それは、今まさに言葉が生まれている瞬間だから。

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