わたしは味方だと伝えられる方法をいつも探していた

長期滞在者

年の瀬の慌ただしさの中で2017年を振り返ると、その前と後で状況がまったく変わってしまうような大きなことが、本当にめまぐるしくあった一年だった。春には会社との雇用形態を変え、フリーランスとして仕事をはじめた。その直後に父が体調を崩し、あっという間に亡くなって、ほぼ絶縁状態になっていた母や姉達が久しぶりに顔を合わせた。恋人と同棲する家をじっくり探し、一緒に暮らしはじめた、など。
今年は後厄でもあった。もともとそんなに意識していたわけではないけれど、振り返ると本厄の去年、今年とたしかにしんどい出来事が多くて、いつの間にかそんな慣習を信じているほうが楽だと思うようになっていた。年が明けてすぐに誕生日を迎えるから、後厄の日々ももう残りわずかだ。最近は仕事は忙しいけど(それもありがたいことだ)穏やかに過ごしていて、トンネルの出口が見えてきたような感じがある。劇的にではなくても、やっぱり色んなことが前向きに動いていくんじゃないかという気がする。

そんな予感があるから書いてみるけれど、今年一番つらかったのは、近しい人たちが苦しむ姿をそばで見ていたことだった。
彼らは時々、自分で自分をコントロールできなくなった。そのたび、荒れた部屋や病院で「もうやらない」と誓うけれど、どうしてもその約束を破ってしまう。破っては約束し、また破っては約束し、そしてまた破る。その繰り返しでだんだん自信をなくしていく姿をそばで見続けるのは、心がつぶれるような体験だった。そばにいても、結局何もしてあげられることはない。「がんばろう」と声をかけるけれど、個人の意志でどうにかできることではないのは明らかだった。でも、それ以外に言葉が見つからなかった。

制御できず、自分の意志に反した行動をとってしまう。そうした人たちについて、いや、そういう人の性質について、長い間考えていた。そんな中で先日、國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読んだ。話題になっていた本で気になっていたのだけど、普段から読んでいる分野ではないし、正直、難しそうと思ってなかなか手を出せずにいた一冊だ。だけど最近、気になった雑誌などでことごとく國分さんのお名前を目にするようになり、そして本で論じられている「中動態」が「意志」とも密接に関連していると知り、意を決して読んでみることにしたのだった。

中動態とは、私たちが日頃使っている言語の中にある、能動態(〜する)と受動態(〜される)という二つの「態」のほかに存在する態のことだ。國分さんは時に未解決事件をたどる探偵のように、また時には生物の進化を調べる科学者のように、この中動態を追う。その語り口もさることながら、これまでに発表された古今東西の論考について言及しながら、素人目には完璧に思えてしまうその論理の抜け穴をくぐり抜けていく展開が鮮やかでスリリング。易しい本ではなかったけれど、各章の冒頭で前章の要点がまとめられるので、わからないまま置いていかれるということも少ない。探求の愉悦というか、高難度のゲームの攻略映像をYouTubeで見ている時のような、純粋な知的好奇心で読み進めたいと思えるつくりになっていた。

中動態はその名前から、能動態と受動態の中間に位置する存在のようにとらえてしまいがちだが、これは間違い。言語の歴史をたどっていくと、はるか昔は能動態と中動態が対立していたのであり、受動態は中動態の派生系だったことが明らかになる。そして、能動態も現在の「〜する」というものではなく、現在とは違う概念の存在だった。能動態と中動態の対立は「主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」。これについては、こちら(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348)の國分さん自身が「謝る」という行為を例に書かれた文章がわかりやすいと思う。本の序盤にもこのたとえは使われているけれど、それよりももっと噛み砕かれている。

”「私が謝罪する」という文は能動態です。しかし、実際には私が能動的に謝罪するのではない。私がどれだけ自分の「能動性」を発揮しようとも、謝罪することはできません。なぜならば、自分の心の中に「私が悪かった」という気持ちが現れることが重要だからです。(中略)要するに、「する」と「される」、能動と受動の対立では、「謝る」という行為をうまく説明できないのです”

「する、される」という能動態と受動態が対立する文法は「誰がしたのか?」を問う、いわば責任の所在を明らかにする「尋問する言語」だった。一方、能動態と中動態の対立においてそれは問題ではなく、意志の存在が問われない。そして中動態が徐々に受動態にその座を追いやられていく過程と、「意志」という概念の発生はリンクしている。言語と思考には深いつながりがあり「言語は思考の可能性を規定する」。そこから、話は意志をめぐる問題と絡み合っていく。

本人の意志のせいにしたところで何も解決しないことはたくさんある。それはものごとに白黒つけるには向いているかもしれないけれど、それではこぼれ落ちるものがあり、実際はもっと複雑で、誰かに責任を押しつけて安穏としている人も、何らかのかたちで事態に関わり、作用しているかもしれない。それでも、責任は負い目を感じる人、弱っている人の懐に、上から下へと流れていくことが多い。そうして、彼らは自分の意志の弱さを責めては、自分や支えてくれる人を裏切る申し訳なさからさらに心を病んでしまうこともある。でも、「意志」という私たちが思考の地盤としている概念から疑ってみると、希望が見えてくるかもしれない。
そういえば、依存症の支援を行う家族の会に参加した時、アルコール依存症の人が断酒に失敗し、酒を飲んでしまうことを「スリップした」と言っていた。これは事故的なニュアンスにすることで、意志の問題として扱われることを回避している。
病と、それを患っている人を分けて考える。それは僕自身が彼らと向き合い、学ぶ中で知った重要な態度なのだけど、いざ事態が起こってしまうと、わかっていても区別することはなかなか難しく、感情的になってつい本人に怒りをぶつけたり、失望したりしてしまいそうになった。

わたしは味方だと伝えられる方法を、いつも探していた。肩を落とす人にかけるべき言葉を、いつも見つけたかった。中動態という文法を知り、意志について見直す発想の転回は、その混乱を解き、道行を照らしてくれるものではないか。
ただ、知ったからといっていきなりきちんと行動することは難しいと思う。これは実用書ではないし、僕たちの生活は能動/受動という考え方に取り囲まれているから、その中で中動態のことを思い続けるのは簡単ではないだろう。だけど即効性のある言葉だけが大事なのではない。うまくたどりつけなくても抜け道はあるのだと想像できること、別のものの見方があると知っていることは、必ず力になる。強く抱きしめるだけではもうどうにもならない時、私はあなたを諦めていないと伝える力に。

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國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

冒頭には架空の依存症者との対談が収められ、あとがきには依存症についての論文やエッセイを多数発表している熊谷晋一郎さん、「ダルク女性ハウス」の代表で、自身もアルコール依存の経験を持つ上岡陽江さんとの出逢いが出発点であったことが語られているけれど、本の中ではそれらの具体的な事柄について直接言及している場面は少ない。それはあくまでもはじまりであって、本編では哲学として中動態の読み解きに終始している。哲学者である國分さんご自身がなすべきことをなし、真っ向からテーマと向き合う姿が文章から滲んで、たまらなく格好良かった。そして角度をつけずに取り組んだからこそ、読者は純度の高い本質的なものを受け取る。自分なりの角度から見れば、きっと誰もが何かを発見するだろう。