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3F/長期滞在者&more

美をめぐる断章4

長期滞在者

eyecatch

芸術には「よくわからない部分」がある。わからない部分こそが人を惹きつける。

逆にわかる部分とは何かというと、例えば言語的、慣習的なもので、それぞれ言い換えるならば、明確な意味として伝達される要素、説明せずとも広く社会で認知されている要素である。これは、本を読むときの文字のようなもので、一度わかってしまえばその使命を終える。

それ以外が「よくわからない部分だ」。

わからなさの理由のひとつとして起源の隠蔽がある。何かを何かに置き換えた時、もとになったものが意図的に隠されることがある。そうでなくとも、起源というのは、離れれば離れるほど、霧の奥に隠れ、やがて見えなくなる。意味の迷路に迷い込む。また、隠蔽など行われずとも、作り手自身にさえ、それがなんでそうなったのか、わからないということもある。やってくるものを翻訳する。それだけ。大昔、ザルツブルク生まれのある楽師は「すべては一塊としてやってくる」と語った。

わかる、わからないを考えるときも、意味やイメージが手掛かりとなる。意味もイメージも「結果」であり、ことの末端、最も新しい部分、木々の枝の先、後付けの理由、異なる支流である。だから、それぞれの振れ幅は大きい。しかし意味やイメージは、そのものを超えて呼応し、新しい何かを生む。意味そのものよりも、この呼応あるいは共鳴の方が、より多くの何かを伝える。そして、いうまでもないが語りそこなうことこそが、語りえないものを暗示する

優れた芸術は「わからなさ」を内包している。あるいは「わからなさ」に向かって開いている。それは多くの場合、「これがなかったらすっきりするのに」というような、何らかの傷であったりもする。

芸術の「わからなさ」の比喩として、亀裂や歪みが好まれるが、個人的には「あわい」や「汀」というのが好きだ。わかりそうでわからないもの、意味をなしそうで無意味なもの、ふと何かに似ていると思いつつもやはり似ていないもの、思い出せそうで思い出せないもの。情的遍満、意味的未分節。

波が寄せる。波が残してゆく形は、二度と繰り返されない。
しかし、海はそこにある。

須藤 岳史

須藤 岳史

ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。オランダ在住。

Reviewed by
Leiko Dairokuno

間/あわい.
ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者である須藤岳史さんの《美をめぐる断章》.第4回目のコラム、公開です.

見つめれば見つめるほどに、掴めない.言語化したりカテゴライズしたり、できないもの達が発する色香.
断言しないことで生まれる「所属の不確かさ」が、絵や、音楽や、薫りや、その他のものたちを神秘的にするのではないか.
「分からない」というのは、とてもセクシーなことだ.

須藤さんのコラムを読んで、大阪の国立国際博物館や、いわき市立美術館で出逢った難波田龍起の絵を想った.
難波田龍起は20世紀のはじめに生まれた、抽象画の人(正確には、色々試したけれども戦後は抽象画の探求に転じた).
詩的で音楽的.静かで軽やかでひんやりとしていて寂しげで優しい.
こちらの心のあり方一つで、キャンバス上の線は雨粒に見えたり、音符に見えたりする.具象と抽象の間のような作品たち.描かれている対象がはっきりと明示されていない分、観るものの心に委ねられる部分が大きい.

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