美をめぐる断章4

長期滞在者

eyecatch

芸術には「よくわからない部分」がある。わからない部分こそが人を惹きつける。

逆にわかる部分とは何かというと、例えば言語的、慣習的なもので、それぞれ言い換えるならば、明確な意味として伝達される要素、説明せずとも広く社会で認知されている要素である。これは、本を読むときの文字のようなもので、一度わかってしまえばその使命を終える。

それ以外が「よくわからない部分だ」。

わからなさの理由のひとつとして起源の隠蔽がある。何かを何かに置き換えた時、もとになったものが意図的に隠されることがある。そうでなくとも、起源というのは、離れれば離れるほど、霧の奥に隠れ、やがて見えなくなる。意味の迷路に迷い込む。また、隠蔽など行われずとも、作り手自身にさえ、それがなんでそうなったのか、わからないということもある。やってくるものを翻訳する。それだけ。大昔、ザルツブルク生まれのある楽師は「すべては一塊としてやってくる」と語った。

わかる、わからないを考えるときも、意味やイメージが手掛かりとなる。意味もイメージも「結果」であり、ことの末端、最も新しい部分、木々の枝の先、後付けの理由、異なる支流である。だから、それぞれの振れ幅は大きい。しかし意味やイメージは、そのものを超えて呼応し、新しい何かを生む。意味そのものよりも、この呼応あるいは共鳴の方が、より多くの何かを伝える。そして、いうまでもないが語りそこなうことこそが、語りえないものを暗示する

優れた芸術は「わからなさ」を内包している。あるいは「わからなさ」に向かって開いている。それは多くの場合、「これがなかったらすっきりするのに」というような、何らかの傷であったりもする。

芸術の「わからなさ」の比喩として、亀裂や歪みが好まれるが、個人的には「あわい」や「汀」というのが好きだ。わかりそうでわからないもの、意味をなしそうで無意味なもの、ふと何かに似ていると思いつつもやはり似ていないもの、思い出せそうで思い出せないもの。情的遍満、意味的未分節。

波が寄せる。波が残してゆく形は、二度と繰り返されない。
しかし、海はそこにある。