暁の人類学(8):Home Sweet Home

長期滞在者

「帰る」というのは不思議な言葉だな、と思います。例えば宇宙空間から地球上を観察していれば、私たちはただ時に移動し、時に同じところに留まっているだけのように見えるでしょう。そうした無数のストップ&ゴーを、しかし私たちは「どこかに行き、どこかに帰ってくる」と認識します。言葉は多分あまり関係ないですね(「帰る」はおそらく人間に限定されない、動物としての「私たち」が共有する概念と思われます)。長年住み慣れた街も、離れて数年すればもはや「帰る」場所ではなく、懐かしさを伴って「行く」場所となってしまうように、結局は相対的に長い時間を過ごした空間が「帰る」場所になるということかもしれません。

いや、こうも考えられます。私たちは単に特定の場所に「帰る」だけではありません。そこで体を休め、食事をとり、眠ります。動物としての能動性をキャンセルして受動的に我が身をまかせます。そうした受け身になれる場所、安全が確保され、意識を失って、睡眠をむさぼっても大丈夫なところ、それが「帰る場所」だ、ということになるでしょうか。

いや、それだと牢獄も収容所も同じですね。受け身です。安全です。眠れます。でも帰る場所とは言えないように思います。そこにずっといるからです。そこにずっといるしかないからです。では、そこからどこかに行けるところ、そこからどこかに行きたくなるところ、どこかに行くことを可能にしてくれるところが「帰る場所」だ、と言うのはどうでしょうか?悪くないですね。いい話です。「生まれ故郷」というのはそういうものかもしれません。でも、どこか胡散臭い(笑)。

仕方のないことかもしれません。ただストップ&ゴーを繰り返しているだけだとしても、私たちはそれを「帰る」と「行く」に分割します。「行く」と「帰る」をつなぎます。円環のなかで意味のある生を紡ぎます。それが悪いことだなんて私には言えません。私もどっぷり、その円環に浸っていますから。

でも、「土に還る」とも言いますよね。土から生まれたわけではないにしても、生を終えて私たちはどこかに還って/帰っていくのでしょうか?人類学では「純粋贈与」という言葉で表現されることもありますが、私たちは自らの生を誰から与えられたのか決してわかりません。直接的には両親から、ということになるでしょうが、親もその両親から授かった命ですから、どんどん遡っていけば、「何か」からとしか言えません。私たちはただ与えられていて、返し方もわからない。その非対称的な関係性を世俗にさし戻すことで「帰る」が仮構されるのかもしれない。「何か」からの純粋な贈与は「何か」に対する純粋な負債です。その「何か」を人は「神」とか呼んだりするわけですが、呼び名はなんでもかまいません、もし「そこ」に帰ることができたとしたら、決して帰ることはないでしょうが、どうしましょうか?

私はたぶん沢山の文句が言いたいです。大変だったんだよ、と。楽しいことも辛いことも沢山あったよ、と。できれば面白い土産話を持っていきたいですね。「こんにちわ」と言って、いっぱい笑って少し殴りあって、「さようなら」と言いたいです。

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