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3F/長期滞在者&more

人物写真

長期滞在者

以前にも書いたけれど、写真は表面しか写らないから、間違っても誰かの「内面」的なものが写るとかそういう話は信じてはいけないのだが、内面どころか「その人の表面」すら写ってるのかどうか心許なくなることがある。
被写体になってくださった方々には甚だ失礼な言い方になるけれど、そこに誰が写ってるか、というのは実は大した問題ではないのだと思う。僕は誰かを写しながら、その人を撮っているのではないのかもしれない。
結局自分自身を撮ってるのだ、というのも、残念ながら違う。すべての写真はセルフポートレートである、という言い方に多少の違和感は感じつつも長らく与してきたが、どうもやっぱり違うぞ、と最近思う。
乱暴な言い方をするならばそれは風景だ。乱暴すぎて自分でも目眩がするのだが。光景というのももどかしい、風景と言い切りたくなる乱暴さが身をもたげる。
世界の諸々のものの乱立と来歴と関連の糸を、ただ自分の視覚から一点透視した姿を風景と呼んでみる。対象が人であっても風景であっても根本は同じなんだと思う。
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以前「風景」についてこんな文章を書いた。

「光の原理的なことを考えれば、僕らは光源の発した光を何かが全方向へ反射する、そのうちたまたま僕らに向かって直進してくる光だけをとらえて像を得ている。
風景なんてたかだかそれだけのことであるとも言えるし、僕らが触れることの出来ない広がりをその後ろに持つのだと考えることも出来る。
たまたま届いた光と、その後方にある届かなかった多くの光について考えてみる。
何かと出会い、それがフレームとして切り取られる。いかにも『捕獲』的な手順を踏みながら、捕り手(撮り手)に届かなかった光は全方位から彼を見つめ返す。
『捕獲』など思い上がりだと知る。すべての風景は『垣間見えて』いるだけである。
写らない他の全方位のことを感じながらシャッターボタンを押す。
『風景』とは、見られる前からそこにあるのではなく、僕がそこにいることによって立ち現れる、世界と僕との共謀の産物である。」
(2012.12「TANTOTEMPO pure 2012」出展『風景について』statement)

いわゆる景色としての「風景」について書いたのだけれど、人物であっても同じだと思うのだ。
人はそこに見たいものだけしか見ない。風景も人も同じだと思う。一点透視の死角部分からは光は届かない。
けど、その視線がふと、写真という抵抗装置のおかげで、コトン、と外れかけることがある。「見たいもの」以外の何かが垣間見えることがある。
外れたときに見える風景に、何か秘密があるんじゃないかと勘ぐっている。

誤解されそうな言い方を許してほしい。僕は人物を写すのが好きだ。・・・そこに何が写るかわからないからだ。
人を撮りながら、人のうしろにある、こちらに届かなかった光に思いをめぐらす。届かない光、というものの存在に心がゆすぶられる。
人物写真はわからないことだらけだ。

yamu

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