長嶋くんの魚の絵でiPhoneを包もう!

スタッフの部屋

早苗ちゃんと出会ってもうかれこれ7年くらいになる。
初めて顔をあわせたのは渋谷の、もう今はないカフェ。語り尽くせないどこか見えない場所に一緒に降りて話す、稀有な時間を過ごした。
その頃わたしは世界に片足で立っているような気がしていたし、早苗ちゃんもまた、人生の迷路のただ中にいるように見えた。
恵比寿の線路沿いの小さな公園でふたりベンチに座り、あの時なにを話していたのかよくは覚えていないのだけれど、子どもがきゃあきゃあ遊び、はらはらと落ちるさくらの花びらとやわらかくひかりに包まれていたことをよく記憶している。
さくらの季節ごとにあの日のことを思うし、これからも思うだろう。

早苗ちゃんのつくる服が好き。
という話はもうなんども自分のブログでもしているのだけれど、その早苗ちゃんの春の新作の展示が11月にあります、という話はまた少しあとに譲るとして、今日は早苗ちゃんの旦那さんでもあり、アパートメントきっての魚好きとしてファンも多い長嶋くんの話です。

長嶋くんの魚の絵を初めて見たのは早苗ちゃんの家の玄関なのだけれど、早苗ちゃんからとてもいいよ、と聞いて想像していた以上の衝撃だった。
はじめに思い浮かべたのは母の習字の先生の文字のことでした。
わたしは母の習字の先生、今はもう亡くなったその先生の字、特に硬筆で書かれたものがとても好きだった。
鉛筆の紙に当たる断面の強弱が言うことなく完璧で、さっくりと収まっている。これ以上もこれ以下もない粒子の集まり。緻密で絶妙なカーブや、切り返しのくっと筆がひるがえし切れる感じは味わってみたくなるほどだった。
からだというものはそのひとが属するもの、所有するものではあるので、すみずみまで「そのひと」であることは言ってみれば当たり前のことなのだけれど、例えば踊りにおいて、舞台に立っているそのからだを「すみずみまでそのひとである」ということで満たし、具現できるひとはそんなにたくさんいない、というふうに私は感じている。
それができていればおおまか、その作品は見ることができる、と断言しても良い。
あらわしたものにそのひとの血脈が通じている、からだの土台のような存在そのものと切り離されていないことが私にとってはそのものに惹かれるかそうじゃないかのひとつの大きな指標になる。(もちろん、手放しにされ暴れている混沌のようなものにだって惹かれるのだけれど)
先生の字はまさに先生のまるごとすべてが、品とか精緻な厳しさとかあたたかみとかが香りながらも、なにごともないようにさらりとそこにあった。
長嶋くんの描く魚のラインにわたし自身が惹かれる要素は、たぶんそれと似通った種類のもの。もっと、ぴちぴちしているけれど。

その長嶋くんの魚の絵がiPhoneのケースになるそうです。
facebookにアカウントをお持ちの方は、今日まで、好きなものに投票できるとのこと。
ぜひいちど御覧ください。
長嶋くんの魚への思いへのいちばんのファンである早苗ちゃんの紹介文も載っています。

 
ちなみに、私の夢は長嶋くんの絵で魚図鑑をつくることです。(←勝手に!!)