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2F/当番ノート

第五章 「滅びた頬骨を」

当番ノート 第20期

砂漠が男を見つめている。

男も砂漠を見つめている。

砂漠の夜が鯨のごとく男を飲み込むと、男の目はまばゆく光り、
その中と夜とを星が行ったり来たりして、男の歩数に印をつけていた。男は言った。

「何者か」

 男は自らに起こっている出来事について砂漠の淵に立って考えていたが、
風が男に吹きつけたので、男は目を開けてこういった。
生きているものの呼吸が男の身体のうろの中、すきま中に、吹きつけて行った。

それはただの予感かもしれなかった。
男はふたたび目を閉じて、星がぐりぐりと眼球から通りぬけてゆくのに耐えていた。
男が一つ欠けたようだった。

男に息が吹きつけられた。生暖かく男の皮をふさぐような吐息であった。
男は目を開けるといった。

「何者か」

しばらくすると風はやみ、しかし男は石像のごとく、その場に縛りつけられていた。
男は何にも思いをめぐらすことができなかった。男の目を星がごろごろと音をたてて行き来した。
男を揺さぶるようなとても大きな移動であった。男は硝子の青みを持った目で一点を凝視していた。
しかし身体は動かなかった。

風は音によって形をとりはじめた。男の口から糸のように言葉がこぼれ落ちて砂をついた。

「おまえは何者か」

音が音をついて、男を打った。男の口はこう言った。

「私は象の目を探している。」

「……神話の時代、
象と鯨が争って、鯨が滅びた。
もうここにはなにもいない。」

男の声で何者かが答えた。

「……おまえはその口を見すえるのではなく、
鯨の眼球の中に〈おまえ〉がいる、のだ。」

男には自らの声をした幻が何を言っているのか、理解しえなかった。

「……おまえをおまえのものとするために、
おまえはそこに立っている。

鯨を飲み込むのは、おまえではない。

おまえは何ものも飲み込まないように
今は心して口を閉じるのだ。」

それは警告だった。問うことを許さない声だった。

しかし男は問うた。

「おまえは何者か」

砂漠は男を凝視した。

男が解き放たれて、目の前の砂をつかんでなげたとき、はじめてそれは言った。

「……俺はおまえに問われるものではない。
俺がおまえに問うものだ。
鯨は滅びたのになぜおまえは、ここにいるのか。」

男は言った。

「象と鯨が分かたれたものだというならば、その骨を拾おう。
滅びたものは、元をたどれば通ずるものの骨格をも露わにす。
私はおまえの声を聞いた。おまえは風ではなかった。
私の問いを止め、魂を枯らそうとする者よ、おまえは何者か。」

 風が吹き荒び、男の耳が張り裂けそうなほど、地の奥から響く声でこう言った。

「……おまえは俺の砂にならねばならぬ。
俺の僕となって、砂の内側からうめき声を上げろ。
ここはおまえのくるべき場所ではない。ここは閉ざされ、滅びた場所だ。
おまえは俺の影であるはずだ。見るな、聞くな、問うな。
おまえは俺の声を通すうろにすぎない。おまえの問いはその残響にすぎない!」

「痛みによって私は目覚めた。
大きなものが小さき者に滅びを与うることは終わったのだ。
私は問い、問われる者だ。
おまえにとっての残響が私だというなら、私は音の中に目覚めた者だ。」

風がうなり声を上げ、男は音によって縛り上げられ、打ち捨てられた。
男は問うことが許されなかった。男は引き千切られて死んだ。
羊の角のような残像が分かたれて、そこにはあった。男は血を流しながら死んだ。

           *

男は次に目覚めたとき、遠くで音がするのを聞いていた。
男はほころび破れた衣を着、砂と汗とにまみれた姿でそこにあった。
見ると、あたりには白い骨のようなものが――男の背を越えるものもあった――散らばっていた。
ちょうど太陽がてっぺんに昇ろうとしていた。すると、ぼこぼこという足音が遠くから聞こえていた。

それは男のはるか前方からやってきていた。
小さな爆発音のように大きな重さを持ち、灰色をしてやってくるもの、
それは鯨ではなく怒り狂った象の大群であった。

象は白目を血走らせ、黒い瞳をぐりぐりと動かして砂城を壊していった。
象は男を見ているのか、前にある何ものかを凝視しているのか、男にはわからなかった。
しかし象たちは憤然として男の方にやってきた。
象たちはかなしみから来る怒りと痛みのために、足の爪から血を流していた。

男は言った。

「このようなかなしい象たちを見たことがない。
一体何事が起ったのか。」

鯨の骨を踏みつぶして象はやってくると、男のことなど見えないように、
猛然とふみつけて行った。
男の頭は粉々になり、手足の指の他には形がわからない状態になっていた。
男は象の歩数を数える暇もなく、その波にのまれていった。

象たちはこごった悲しみと優しさをたたえた目などしていなかった。
皆おだやかな者たちが一つのことに囚われて自らの形を失っていた。
象たちは地平線まで行くと、とけたように姿が見えなくなった。
男はそこに取り残された。葬りも手向けもなされなかった。ただ夕闇に溶けて行った。

         *

 次に男が聞いたのは、かすかな声だった。

      起きなさい。

男がまた形を成すと、その声が鯨の骨から発せられていることがわかった。

      おまえは像の目を見たはずだ。
      精神のない物体は、ただそこに在り、
      在ること以外にそこにはない。

      あの像の目は、無い。

      なぜなら、恐れが作り出した妄像であるからだ。
      すべての生み出された物質には精神があるか、
      もしくは精神を帯びているものだからだ。
      おが屑にも精神がある。

      精神がない物質は無だ。
      が、精神は世界に物体でなくとも存在している。
      
      本当に象の目を得たいのならば、
      おまえのいるべき場所はここではない。

      おまえは路を行かねばならない。
      麦がうごめく旅路を向いてここから去り、生きねばならない。

男はうなずき、つぶされた頬骨を拾い、接吻をした。
そして、振り返らずに砂漠から去った。

淺野 彩香

淺野 彩香

1989年東京生まれ。
『現代詩手帖』2013年3月号
「現代北欧詩特集」ペンッティ・サーリッツァ自選詩集共訳。
詩人となるべく、精進中。

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