入居者名・記事名・タグで
検索できます。

2F/当番ノート

第六章 愛する幻

当番ノート 第20期

「ここに器がある。
だが目を凝らしても普段は目にすることができない。
見えないこの器は、個人のみでなく、
人々の無意識によって形作られている。」

鯨の元を離れてサボテンだらけの大地を歩いて、
男は乾地と荒野の境に足を踏み入れた。

荒野の先に林があり、土が湿り気を帯びていたので、
行く先の土地には水脈があることが想像できた。
林に入ると、木々がささめき合って揺れていた。

やがて、木々の音が男には段々と女の密やかな笑い声に聞こえてきた。
どこか懐かしい声だった。

惑わされぬよう警戒をしながら、林の終わりへ歩を進めてゆくと、
大きな木の下に美しい女が立っていた。
それは、亡くした妻の姿に見えた。昔の若い頃の妻だった。

女が微笑みかけたので、男は思わず妻の名を呼んだ。
女は口に手を当てて、密やかに笑うと言った。

「拾ってください。これは私そのものです。」

女は持っていた水瓶を下に落として割った。
男は手に傷をつくりながら、疑念も忘れて破片を拾い、
懸命に土をこねて継をして組み立てたものを女に渡した。

女の手に渡ると甕はいつのまにか元の美しい姿に戻った。
彼女はまた言った。

「これを拾ってください。私そのものです。」

男は根気強く何べんも拾い集め、組み立て直した。
女は悲しげに微笑しているだけだった。

男は疲れ果て、なぜこんなことをさせるのかとつぶやいた。

女は悲しげに言うだけだった。

「拾ってください。私そのものなのです。」

そして、やっと男は真意に気づいた。
妻の言う「拾う」の意味が異なっていたことに。

男は、これを直せば、彼女の失われた肉体が元に戻り、
精神や魂が吹き返すものだと見当違いをしていたのだ。
男は失った妻をまぶたの内に見た。

彼女は失われてしまったこと、男や人々の心の内にしかないことを
彼はまざまざと痛感した。

そして、涙を流しながら穴を掘り、彼女の水瓶を一片、一片、中に入れた。
どのかけらも美しい文様で忘れることはなかった。

男はもう妻を失うことはなかった。
彼女は彼の心の中におり、男はもう目の中に象はいなかった。
しかし、そのことで彼はもう駆け出す必要がなかった。
象の目はどこでもあり、とどめることはできない。

男が静かに森から出ると、目の前には草原が広がっていた。

淺野 彩香

淺野 彩香

1989年東京生まれ。
『現代詩手帖』2013年3月号
「現代北欧詩特集」ペンッティ・サーリッツァ自選詩集共訳。
詩人となるべく、精進中。

トップへ戻る トップへ戻る トップへ戻る