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2F/当番ノート

第四話 「壁」

当番ノート 第20期

鏡が割れたような不吉な音を聞くと、急に洞窟から出たような開放感があった。
足の裏に息吹を感じた。目の前にはいつのまにか立ちはだかる地層がある。
その記憶が堆積したような壁をただただ見つめていると、そここに白い黴が生え、
上部から水がしたたり落ちていることに男は気づいた。低く水音もする。
近くに沢があるのだろうか。男は音に耳を澄ませていた。
上向くと、林が訝しげにこちらを覗き込んでいた。

男は思った。

「なぜこんなところに来てしまったのだろう。
ここには、記憶以外に何もない。史積の墓場だ。
林には知性の泉が湧き出している。
生者たちが命の水を注ぎ込んでいるのだ。
けれど、ここには地の残り滓以外になにもない。
沢で喉をうるおしたいのに、それは遥か上にある。」
 

男にその壁面は耐えがたかった。喉がひりひりと渇いて頭が痛んだ。
いままでDasmenを苦しめてきた全てのものが無となった後の、
喪失され蓄積された歴史の形を表していたからだ。
男は目を強くつぶり、額に大粒の汗をかいた。
そして本当は、自らがこの壁と直面しなくてはならないことをどこかで知っていた。

それでも、存在の意味を揺らがすものは恐ろしい。男はなかなか目を開けられずにいた。
時が経ち、ふくろうが大きく一鳴きしたので、うすく目を開けた。
夜になったのだ。辺りは薄暗かった。意識にも昼と夜とがあることを知った。
そして、つぶりそうになる目と格闘しながら、男は決意した。

「たとえ、次に私が狂人になることが定めでも、
私は目を開け、あたりの空気を吸い、
そのものと直面しなければならない。」

男はゆっくりと吸ったりはいたりしながら息を整えた。
壁面は未だ目の前にあり、自らの末路や人間の罪、醜さを示そうと待ち構えている。

男は自らがその壁を見ることに耐えられるかどうか確信がなかった。
おそらく全てのものがもぎ取られ、また力が重力から切り離されて、
みずからを感ずることがなくなるであろうと、男は思っていた。
ヘルダーリンの木阿弥になるかもしれない。
だが、その先に象の目があるのかもしれないと感じてもいた。
影と表裏になることで、死と直面することで、象の目を見られるのではないか。
とも男は思っていた。男は勇気を振り絞って。顔を壁面に向けた。

     男は像の目を見た。

     それは無であった。

男は我に返ると、そこには内から広がる水音があった。
そして壁に宿っていた恐れは消えていた。
そこには生きた壁があった。

男は視点をめぐらせて、もう一度壁の全体を見た。
そして、あるしみに目を向けると、そこが熱を持っていることに、気づいた。
男もそこに目線をあてることによって、自らも熱を持ち、力が強くなってゆくのを感じた。

男は先ほどまでは、直視することもできなかった壁に触れて、そのしみをなぞった。
すると、その部分がへこみ、男の腕も中に絡め取られて、入っていった。
入ると、中にはうろがあり、足元には水がこんこんと音を立てて流れている。
男は水をすくい、のどを潤した。それから水音にしたがって、うろの中を進み、
行きどまると、男はまたゆびから手を差し入れて、外壁に飛び出した。

男の目を太陽がさした。その太陽が沈むまで、男は盲目だった。

淺野 彩香

淺野 彩香

1989年東京生まれ。
『現代詩手帖』2013年3月号
「現代北欧詩特集」ペンッティ・サーリッツァ自選詩集共訳。
詩人となるべく、精進中。

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