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2F/当番ノート

「あなたには分からないでしょ」問題に答えがあるわけじゃないけど、(仮)

第30期(2016年12月-2017年1月)

「あなたには分からないでしょ」
「             」

問題:
「」(カッコ)に入る最適な応答を選べ

選択肢:
①「いやいや、分かるよ!」と食い下がる
②「分かんねーよ知るかよ」と開き直る
③「あなたの言うことは分からないかもしれないけど落とし所は探そうよ」と対話を試みる

—–

さて、「正しい」受け答えはどれだろうか。

①は、なんかこう、熱血青春〜って感じ。

②は…ドラマの主人公とか、ぶっきらぼうなキャラクターをイケメン俳優が演じるなら絵になりそうですね。

③は、お上品ですね。インテリリベラルっていうか。字面だけ見るとこれが「正解」のように見えます。

僕はこの問題、
答え:
「解なし」
だと思っている。

もちろん場面や関係性によっては、①②③いずれかの応答が有効に働くこともあるだろうけど、それはずいぶん限定的な個別具体事例の域を出なくて、一般解とするには程遠い。

たいていの場合、「あなたには分からないでしょ」とか言われるようなときは、相手がこちらにそもそも「分かってもらうこと」を期待していなかったり、もしくは「分かりっこないだろう」とすでに失望していたりしているので、相当な劣勢である。対人関係の極意的には、そもそもこう言われるような状況に持っていかない、みたいな教訓なんだろうけど、まぁそれは瑣末な技術論に過ぎなくて。

ここで言いたいのは、そもそも「分かった」「分かってない」って、言語で相互に確認可能なものではないのだと思う。抽象的な論理や外界の客観物の確認はまだマシだとして、相手の「気持ち」みたいな内面の話になると特に。
 
 

 
 
後味の悪い別れというものは存在する。

僕から相手への好意が暴走したとき
相手が僕の立場への卑屈さを拭い切れなかったとき
僕が相手の変化や振り切り方についていけなかったとき
相手の信念が強固すぎてそもそも対話すら成立しなかったとき
ゆっくりと開いていくことを必要としていたのに待ちきれなかったとき

まぁ、色々ある。誰しも生きていれば多かれ少なかれあるんだろうけど、いま再び相手に出会ったとしても、きっとなんにも言えないだろう。

その瞬間はどれだけ辛くとも人生は無情にも(そして無常にも)続いていくもので、人間のメンタルもそれなりに回復可能であったり、反省から学んで次に活かしていくこともできたりする(そのために生きてるわけじゃないが)。

そもそも相手を「分かる」という期待や傲慢を持たないこと。
「分からない」としても、お互いを尊重しながら共に在ることはできること。

そういった姿勢は、すり傷切り傷を重ねながらも僕の中に形づくられてきた。

そして姿勢はやがて技術となり習慣となって定着する。
他者と向き合う時は、オープンで、フラットで、主体性とダイバーシティを尊重しながら対話を進める。みたいな。

丸めて言うとそれは「社交性」とか「コミュニケーション能力」とかいうものなのかもしれない。事実、僕の対人関係は年を重ねるほどに、驚くべきほどスムーズに、そして安定するようになった。
 
 
そんな自分が、時おり嫌になる。

「訓練」されてんなー、と。
 
未熟で傷つけあった関係かもしれないが、あの頃の方がより「生身」だった。そんな気がする時もある。

お互いの大事なところを土足で侵食しないように、自分と他人は違う、という線引きを行うことは、大人同士が社会で生きていく上では必要なことだとは思う。だけど、慣れと打算と、危機回避の指向性が強まりすぎれば、必要以上にディフェンシブで変化のないコミュニケーションになってしまう。

「分かる」なんて思うことはおこがましい、というスタンスは今もあまり変わらないのだけど、無疑問に脊髄反射的に「うんうん多様性だよねみんなそれぞれあっていいよね」とポジティブな反応を返すばかりコミュニケーションは気持ち悪くて虫唾が走る。適当なこと言いやがって、と。でも油断すると僕自身いつテンプレ化の罠に嵌まるとも限らない。

線を引く場所が遠すぎやしないか?

線を跨いて交わる可能性を諦めたり恐れたりしていないか?

「相手を尊重する」というお作法を、「自己開示しない」言い訳に使ってやしないか?

そういう問いが常に「動いて」いないと、コミュニケーションは立ち枯れするのだろうな
 
 
「分かった」「分かってない」という”結果”の問題にすることがナンセンスなのだと思う。

わかったかどうか、は受け手の主観の問題であるし、お互いの「わかった」が一致しているかを確かめる術もない。

だけど、「わかりあえない」という事実があったとて、それは「わかりたい」という願いを持ったり、わかるための行動をとってはいけないということではない。

相手のことはわからない。ましてや相手の態度や気持ちをコントロールなんてできない。

でも少なくとも、「分からない。だから私はあなたのことをもっと知りたい」というメッセージを発し続けることはできる

線の向こう側からささやくんじゃなくて、自分の腹を開いて相手に投げ出すことだってできる。

わかりっこない、んだけど、わかろうとするベクトルは持つ、というか、わかりっこない、んだけど、ピリオドは打たない、

そういう、ね、繰り返し、
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鈴木 悠平

鈴木 悠平

閒-あわい-を掬う日々
企てたり書いたり編んだりしています。
アパートメントでは第8期当番ノート担当後、2014年より管理人。

1987年生まれ。
東日本大震災後の宮城県石巻市におけるコミュニティ事業、大学院での地域保健政策及び高齢者ケアの国際比較研究を経験した後、株式会社LITALICO入社。発達障害に関するポータルサイト「LITALICO発達ナビ」(https://h-navi.jp/ )の企画・編集を担当。

ウェブマガジン「soar」(http://soar-world.com/ )の運営、「greenz.jp」(http://greenz.jp/author/SuzukiY

Reviewed by
大見謝 将伍

口が悪いようだが、「共感します」という言葉が大キライだ。

右向け右で、上下左に向きたくなる、というか、そっちを向いてしまう自分にとって、「共感します」という言葉ほど、うさん臭いものはない。「浅いなあ」という毒をついつい吐いちゃう難癖がある。

それは「あなたにはわからないでしょ」の姿勢で、物事をうがって見てしまうからであって、同じように見えても、一人ひとり、家庭や地域、学校、仕事など育ってきた環境があまりにも違うわけで、「わかってます」と言うことにも、言われることにもヒリヒリと緊張感を持ってしまう。

学生時代に、教育学系のゼミにいて、開発教育だか教育開発だかの分野で、優秀な学生がバングラディッシュのような途上国に対する教育支援について研究していたんだけど、彼らはすべてをわかったような姿勢で、上から目線で「子どもたちの教育をどうするか」と議論していた。

それが、気持ちわるかった。だって、現地の教育を体験をしていない彼らは、気持ちを100%わかるわけないのだから。わからないことを肯定しないままに、話が進んでいる、しかも机上の空論をディスカスしている様子は、滑稽でもあった。「わからないです」という歩み寄り方じゃないのは、なんでだろう、と。

よくいう話だろうけど、「(こっちの解釈では)理解はできるけど、本当の意味では、人は(互いに)共感できない」という考えを持ち、この明るいような暗いような世の中で日々を暮らしている人にとって、「わかってます」という言葉にどれだけ敏感になってしまうかって話だとも思う。

10人の「わかってます」の文脈はそれぞれ違うし、彼らの頭のなかでの想像力は"特性上"違うのも、そりゃ当然の話なわけだ。それが同じトーンの、使い回しのできる「共感します」「わかってます」として扱われると、嫌悪感がある。そういう育ちなんですね、きっと。

自己開示なりなんなりで、わかっている姿勢を見せないと、コミュニケーションは成り立たないこともある。そうやって、人とのバランスを取ることは、大事であるけど、集団のなかの自分としての考え(いわゆるポジショントーク)と、一個人としての考えというのは、そりゃあ、違うわけだ。

わからないことを、ちゃんとわからないという潔さを示せるほうが、一人の人間としての体温を感じやすいのは、ぼくだけではないはず。地位なのかプライドなのかを守るための集団的な「わかります」よりも、その人のこれまでの歩みと人間性を感じられる「わからない」の言葉を聞けるほうが心地よい。

「わからない。だから私はあなたのことをもっと知りたい」は、「共感できない。できるわけない。だって人間が違うんだもの。だから私はあなたのことをもっと理解したい」という置き換えが必要だと思うし、そういう相手を知らないからこそのコミュニケーション方法が大切だな、と思うのはそこらへんかもな。

わかった気にならない。大人になればなるほどに、「訓練」されて人や社会がわかった気になっちゃうからこそ余計に、子どものころにあった未知のものへの探究心を持ち、違うものを受け入れる寛容性をそだてることが、ソクラテスさんのいう「無知の知」を日常生活において実施することなんじゃないかって。

という感覚について、(ぼくの文章ベタもあるから更に)「わからんわ」と率直に感じる人も多いだろうけど、「わからない」がデフォルトで「わかってほしい」とも思っていないからこそ、「共感します」が大キライなぼくのような一個人がいることは、おぼろげながらにでもわかってもらえるとうれしい(こじれていて、すみません)。

大人なんだから、もっと「わからない」をおもしろがれたらいいよね。

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