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2F/当番ノート

何者でもない、何者かになるためには生きていない

第30期(2016年12月-2017年1月)

「悠平はさ、要はドラマチックに生きたいんでしょ」
と、以前言われたことがある。
(会社の、上司というか、直接の上司じゃないんだけど入社以来ずっと世話になってる人で、飲みに行くたびにボコボコにされる)

その問いかけに対しての答えは概ねイエスだ。そもそもの気質が芝居がかっているというか、感情のアップダウンは大きいし、すぐに人のことを好きになるし、出会うこと起こることにいちいち意味を見出したがる。他人からしたら大したことでもないであろう出来事に、いちいち心がざわついたりして、慌ただしい。

“概ね”イエスと言った理由は、演じている本人が自分の役割もこれからの筋書きもわかっていないからだ。

「ロールモデルは誰?」とか「尊敬する人は?」といった類の問いにはいつも「うーん」と答えに窮する。周りの人たち一人ひとり、それぞれに尊敬し学ぶところはあるのだけれど、誰か一人、この人のようになりたい、と固定的なモデル、演じたい「役割」があるわけではない。

社会的マイノリティと呼ばれる様々な領域と、そこにいる人々と、仕事柄でも個人としても関わることが多いのだけれど、自分自身はどこへ行っても狭義の「当事者」ではない中途半端な立ち位置で、(それが必要とも思っていないが)特定の民族・宗教・障害・疾患・性的指向性・社会階層・世代etc.なんらか特定の集団に自分を強烈にアイデンティファイしたり、その集団を「代表」するということは僕にはできない。

「将来どうなりたいの?」「将来の目標は?」という問いも、ほんとのところはピンとこない。全くの無計画というわけではないし、方法論としてはある程度の目標設計だって出来はするけれど、仕事だって家庭だって時間が経つほどに前提条件は変わってくるものだから、究極わからない。

12月から1月にかけて連載をしてきたが、2ヶ月もすれば色々なことが起こる。

Apple Musicで毎日聴くアーティストのブームは2,3回変わった(最近は水曜日のカンパネラ)。
僕の日常生活には「帰ったら郵便受けを見る」という新たなルーチンが導入された(妻の指導の成果)。
アルバイトの学生が卒業をしたり、かと思えばニューカマーがやってきたりした(最年少20歳、おののく)。
カネのない若人たちの就職活動・転職活動にもどうにかこうにか進展があったりするのを聞いた(がんばれよ)。
上司と年内の仕事の振り返りをして、次の課題や期待や役割の話もした(がんばります)。
うつだった友人が回復をしてきたり、かと思えば別の友人が元気なくなったりもした(している)。
むかし恋をしていた相手から久しぶりに連絡が来て短いやり取りの末に結婚の報告をした(元気でね)。
社交性全開で双方の実家家族に年末年始の挨拶周りをした(意外とやれた)。
友人と3年ぶりに再会したかと思ったらエジプトに旅立つのを見送ったりした(気をつけて)。
アメリカでは大統領が変わったという事実を確認した(そうか)。
友人の家に子どもが生まれたのを祝った(おめでとう)。

出会う人、場面によって私はいつも違った自分に出会う。

教えを乞うこともあれば教える立場にもなる。
話を聞いてもらうこともあれば聞き手に回ることもある。
気持ち高ぶったかと思えばしょんぼり落ち込むこともある。
さらさらと文章がかけたりまったく筆が進まなかったりもする。

「何者かになりたい」ともがいた時期もあったのだと思う。

いまは、「何者でもない」ことを自分の足場としようと思っている。

おろおろしながら勇ましく、蛇行運転で日常を営んでいくSHOZON

鈴木 悠平

鈴木 悠平

閒-あわい-を掬う日々
企てたり書いたり編んだりしています。
アパートメントでは第8期当番ノート担当後、2014年より管理人。

1987年生まれ。
東日本大震災後の宮城県石巻市におけるコミュニティ事業、大学院での地域保健政策及び高齢者ケアの国際比較研究を経験した後、株式会社LITALICO入社。発達障害に関するポータルサイト「LITALICO発達ナビ」(https://h-navi.jp/ )の企画・編集を担当。

ウェブマガジン「soar」(http://soar-world.com/ )の運営、「greenz.jp」(http://greenz.jp/author/SuzukiY

Reviewed by
大見謝 将伍

"自称がんばってますマン/ウーマン"が苦手だ。

主語を間違えると、意味が弱くなる言葉もあるよね、と思ったので。

だって、その人が「がんばってる」かどうか決めるのは、自分じゃなくて、他人でしょ。

だから、「ぼく/わたし、がんばってます」と自分でいうよりも、「あいつ、がんばってるよな」と他人が口にすることのほうが、意味がある。

それと似ていて、「何者かどうか」は、自分が決めるのでなく、自分のなにかしらの活動を見ている、他人が何者かどうかを名付けていくものじゃないかなあ。

で、それなら、やりたいようにやってみて、その果てに、何者か名づけてもらえたらほうがいい。なにもしないままに、何者かどうかを考えてみるのもどうかと思えるし、他人との関係性を通してしか自分は見えない。

そういう意味では、自分が何になりたいかどうかって、実は意味ないのかもしれない。

とはいえ、自分の「なりたい/在りたい」かたち、いわゆる「意思」は持っていたほうがよく、意思なくば何者にもなれない。

へこんだり、しんどいときもあるし、なかなか気持ちが上がらないような日もあるだろうけど、それでも3歩進んで2歩下がるスタイルで、のらりくらりとでも、意思さえ持っていれば、自然と、何者かに成っていく。

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