大学の転科試験の面接会場で「好きなことばは何ですか」と尋ねられたので、「シャンプーです」と言った。
「ことばが好きと書かれていますが、好きなことばは何ですか」
「シャンプーです」
「どうしてですか」
「ことばの響きが可愛くて好きなのです。『シャ』は涼しげで、『プ』の半濁音はシャボンを想像させます。『プ』の前に『ン』があることでさらに『プ』が引きたち、最後の伸ばし棒にことばの余韻を感じます。耳ざわりもいいし、何より、あの泡立つ液体と名前に裏表がない感じが好きです」
他には「旗」や「シフォン」や「(髪を)ゆわう」なんかも推したい。
物体と名前を重ねた時に、きっとお互いの細胞が吸い付きあって呼応することば。記号的な日本語にうっかり意味を内包してしまったことば。もし言語の歴史が繰り返されたとしても、彼らに同じ音を編んで欲しいと思えるような、そんな。
同じ理由で、「ひかり」ということばも好きだ。母音iの『ひ』でまっすぐに日が差して、『かり』で波紋のように広がる。真ん中の『か』がバランスを取る。口に出してみると心地いいスピード感がある。ひかり。ひかり。
_
はじめまして、このアパートメントに二ヶ月滞在する、鮃です。
今朝6時20分、オーナーのアマヤドリさんと、なだらかで小高い丘の上で初めてお会いした。霜が降りていた。眼下には二月の海が広がっていた。と、向こうから人のかげが手を振りながら近づいてきて、わたしはすぐに彼女が誰か分かった。まっしろな羽布団を体に巻きつけていたからだ。
「おはようございます」
「おはようございます」
「はじめまして」
「はじめまして」
「寒いですね」
「ですね。雪の匂いがする」
「でも布団はあたたかいですね」
「あたたかいですね」
初めて会ってもわかるように、ドレスコードは白い羽布団にしようと話したのだ。何より今日はうんと冷えるから。体がつめたくならないように。
二つの羽布団は丘をくだった。案内されるままに、さっき丘から見下ろした海辺を歩く。いつの間にか登り始めていた朝日が、凪いだ海の皮膚をやわらかく反射させている。わたし達は、浜の上をどんどん(でも布団の裾の白を汚さないように気をつけながら)歩く。
そうしてたどり着いたのは、海辺にたつ大きなアパートメントだった。
「お邪魔します」
玄関のガラス扉を押しあけ、壁に沿って一つづつ部屋をのぞいていく。まず、パーティ会場、隣にアトリエがあり、その隣に釣り堀があり、猫と犬があり、中学校の教室があり、遠い国があり、スケートリンクがあり、実家と同じトイレがあり、そして体育館みたいな天井の高いホールがあり、そこは劇場なのだった。
アマヤドリさんはそこで足を止めて、
「はい。あなたの部屋の鍵です」
と、わたしに一枚の鍵を手渡した。鍵には鳥の形の小さなプラスチックのキーホルダーがぶら下がっていて、よく見ると『Sat.』と刻まれていた。
「ありがとうございます」
「最後まで案内できずすみません、公演があるので、ここで失礼しますね」
「何時からですか」
「夕方から。これ、よかったらフライヤーです」
「行っていいですか」
「お待ちしています」
そうして彼女は初めて会った時と同じようににこやかに手を振って、羽布団をマントのように翻し、舞台の中へ消えていったのだった。
ひかりについて書こう、と思う。
たぶん人よりもひかりに興味と執着がある。それに気づいたのは一年前に演劇をはじめてからだが、そういえば小学生時代、百人一首の中で好きな句は三十三番、「ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ」だった。ひさかたの光のどけき、の一文は今でも胸に刺さる。安直かもしれないけれど。
特に暗い過去がある訳でもない、未来に絶望している訳でもない、でもいつもひかりの前に立たされると涙がでる。写真に写った明るい残像に胸が張り裂けそうになる。見えたり見えなかったり、小さかったり大きかったり、やさしかったり冷たかったりして、いずれもその存在を掴ませない。わたしは圧倒されて、掴もうとも思わない。
でも演劇をしている時、舞台の上に立った時は、どうしてか、掴みたいと思う。掴みたい。掴めそう、掴めなくてもいい、掴みたい。わたしとひかりの小指と小指がかすかに触れ合う。わたしという人間が、意志を持って掴もうとする。
ひかりの中を、光速と並んで歩く
コンマ秒の粒をひとつひとつ拾いあげて、舞台を歩く
明日にも昨日にもゆけないあなたは、今、ここにいる あなたが、ここにいる
そのまぶしさに目を細める、産まれたばかりの輪郭に、手を伸ばしてみる
あたたかくてかたくてやわくてまぶしくて淡くて
手のひらに感じるあなたの心拍数はBPM200を越える
あなたはここにいて、生きているようだ、
わたしもここにいて、ここで息をしていて、
……あ、不在。
「そうか、死んでしまったのね、じゃあしょうがないよね。
あなたはここで死んだので、わたしは新しいあなたと歩く。」
嘘、
そんなのさみしさに枕を噛んでしまうから、点の連続のこの身体を、置いていかないでよ
いま、いま、今今今、連続する今を、看取る 誰かの吐いた酸素を吸って吐く
なん億のまばたきが身体の皮膚を焼く 交差する視線をよぎって泣く
吐息。瞳が描く風景
動物と人間のあいだで振れる自意識
もう戻れない後戻りできないささやかな地獄の一歩
耐えられない、またたきの質量
「はじめまして今だけあたしと踊りませんかさあ手を取って。あ……さよなら。はじめまして今だけあたしと踊りませんか手を。はじめまして!今だけあたしと踊りませんか。はじめまして今だけあたしと。はじめましてあたしと踊りません。あたしと踊りませんか手を取って」
でも私はきっと、何ひとつあなたを諦めたくないのだ
為す術なく消える身体を抱きすくめたい
飲み込んだ言葉をあげたい
その背中で泣きたい
視線を壊したい
忘却
はじめまして、あたしと踊ろう、さあ手を取って
手を取ってよ
あなたは苦しい 泡になって、なくなるから
でも、苦しくてよかったね 気づけてよかったね あたしだって最後は煙になるということ
けれどもどうか、最後はふたり、踊り疲れて眠りたいのです
それまで死に還り生き還るあなたの手を取りつづける
_
そうそう。ここの部屋はとても素敵だ。広いし。大きい採光窓。高い天井。水色のタイル。家から包まってきた羽布団もあるし。一人部屋には十分すぎるほどだ。前の住人が残してくれた家具のおかげで、生活環境は全て整っていた。住人が置いていったのは家具ばかりでない。ノートや本や写真など、誰かの記録の束があらゆる引き出しに詰まっていた。わたしもここを出ていく時、何かを残せるだろうか。
ひかりの採集をしよう。わたしのひかりを。あなたのひかりは何ですか。