夜が好きだ。夜は光が輪郭をとるから。
5歳の時、結構ボロい官舎に住んでいた。雪国だったから、冬の朝なんかはドアがコチコチに凍って開かない。その度に母はシュンシュンいってるやかんを持ってきて、熱湯をドアの隙間に流して氷を溶かし、父を会社に送りだした。水道管もよく凍った。冷え込みが厳しく、今夜は水道管も凍るだろうという日は、家族で一階のリビングに布団を敷いて、暖房をゆるくつけながら眠った。わたしにとってそれはまさに心踊る一大イベントだった。二階の押入れから一階まで布団を運ぶのも、布団のすぐそばにキッチンがあるのも、一晩中暖かい部屋も、全て愉快でうれしい。味をしめたわたしは水道管が凍る夜を、夜な夜な祈ることになる。ある日再び、リビングに布団を敷き詰める寒くて愉快な夜がきた。おやすみの後に電気が消え、わたしも眠りに落ちたが、その日はなぜか深夜に目が覚めた。上体を起こし、また倒して、起こして、倒して、起こして、布団を這い出て、真っ暗な闇の向こうを見つめた。ねれない。
「ねれないの?」
振り向くと母がたぶん目をつぶったまま笑っていた。
「うん」
「よーしじゃあ遊ぼっか」
そう言うと母は元気に、でも父を起こすことがないように布団から出た。どこかへいってしまったな、と思ったら、オレンジのまあるい光が向こうから歩いて来て、「影絵しよう」の言葉と共に、赤い懐中電灯を手渡された。
_
アパートメントに越してから一週間が経った。ここを初めて訪れたときのわずかな緊張、友達の友達と話す時のような初々しさは消え、わたしはいつの間にかぴったりと部屋に馴染んで “生活”を始めていた。今朝の飲みかけのコーヒーが、ワンカップ大関に生けられた白い野花が、引き連れてきた日常を語っている。
今日は舞台を観に街へ出た。すっかり日は落ちていたが、昼間のように賑やかな街だ。街灯がネオンが車のライトが店から漏れる光が、闇をふちどる。音楽が鳴っている、大勢の人がそれぞれの生活をもって話をしている、競い合うように看板が光っている、気を緩めたら人と情報の群に静かに飲み込まれてしまいそうだった。自分の手と手を握りしめていたのに気づいて、それをほどく。手首を回す。深呼吸。そこへ友達が走ってくる。わたしはホッとする。
開場まで時間があったので、コンビニに入った。わたしはおにぎり、友達はおでんを買って、喧騒から少し離れた公園に移動した。
「おでんの屋台なんてないんじゃん」
「ね」
「あれはおでん君だけの世界なんだ、どうせ」
「あ、もしかしたら東京37区外にはあったりして」
「嘘。東京にはなんでもあるんでしょう。だから上京したのに」
「嘘つけ」
「ほんとだよォ」
「おでんの屋台以外はなんでもあるよ多分……え、何それ」
「え?これ?しみ豆腐」
「しみ豆腐?」
「またの名を高野豆腐」
「高野豆腐?おでんに?コンビニおでんに?」
「そそ。去年からコンビニおでん界は激アツなんだよ、なんか地元具材フェアから火がついて」
「あんまコンビニ入らないから知らなかった」
「だと思った。変わり種全部取ってきたからちょっと食べる?」
「え、マジ、やった。いいの」
「いいよ。えっと。にんじんでしょ、つぶ貝でしょ、じゃがいもでしょ、豚足でしょ、白子でしょ、たこ足でしょ。……おーい」
にこにこした顔で友達が具材説明を始め、彼女が「たこ足でしょ、」と、たこ足を割り箸で持ち上げた瞬間、公園の脇の道路をトラックが走って、その煌々とした白いライトが、うす暗くてよく見えなかった友達の顔と宙吊りのたこ足を一息に撫でて、去っていった。その、一瞬で闇に浮き上がった友人の微笑みとたこ足の美しさについて、わたしはうまく述べることができない。その代わりのように肌がわずかに粟だった。
「たこ足。たこ足、わたし大好き。一口ちょうだい」
予期せぬ光と行動がかっちりと噛み合う瞬間がある。その時、映画のワンシーンなどないはずの生活の一瞬が、急に「ワンシーン」としてスクッと立ち上がる。たいていそれは写真に収めることができなくて残念に思うが、運命なのか偶然なのかなんなのか、凄まじい風圧が脳裏に(メンコを床に叩きつけるがごとく)その映像を焼き付けるので、きっと写真より器用に思い出すことができる。いつまでも。
_
記録に、好きだった光を記しておく。
夕暮れ、バスの窓側で開く小説、文字を走る街灯
暗幕裏から舞台を覗く役者の横顔、睫毛の影
電車のドアにもたれる好きな人、撫でるネオン
トンネルのオレンジと眠り込む友人
背中にいっぱい光を集めておにぎりを食べる公園の老人
布団の中の携帯、ブルーライトと恋
煙草の先に火をつける一瞬の真剣
光を浴びた君はどきりとするほどすてきだ、でもいかにすてきだったかを君にすら伝えることができないのがもどかしい。