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2F/当番ノート

ひかりの採集 / 04.ボトルメール

当番ノート 第37期

2月24日 天気:晴れ
8時起床。朝ごはんはトーストとお味噌汁、目玉焼き。軽く掃除して、ついに押入れのダンボール(169箱)を開ける作業をする。ここを訪れた人の置いてった、記憶とか指紋とか手帳とかネガとか時間とか…ほんと色々。昼はパイナップルの缶詰をフォークでジカ食べという贅沢。夜ごはん、米と炒め物。ダンボール最高に面白いけれど量が多すぎ。明日も引き続きやる。昔のものからひらいていったんだけど、一番古いものは5光年前のボトルメールで度肝を抜かれる、思わず書き写す。23時就寝。

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親愛なる誰か様へ

こんにちは。この手紙を見つけてくれてありがとうございます。わたしの名前は依です。ヨリと読みます。依は、実験のためにこの手紙を瓶に入れて海に流します。でもあなたがこの文を見てくれている時点で実験は成功なのです。ありがとうございます。あなたに幸せが訪れますよう。さよなら。

依 

追記
長い追記です。良かったら読んでください。
依の実験というのは、ボトルメールそのものです。ボトルメールを媒体に、誰かに何かを伝えたいとか、ボトルメールのその先の人と手紙友達になりたいとか、ボトルメールで海流について調べたいとか、そういうんじゃないんです。今ここにいる私は、紙を走る黒ボールペンの筆跡の中にぴったり収まって、依に八つ折りにされて、レモンの香水(と依は言っていますがレモン汁のことです)を振られて、ジップロックに入れられて、透明の水色の瓶に入れられて、蓋をギチギチに締められて、近くの海に投げられます。私は長く長く海をただよいます。あなたに紙を開かれ、あなたと対面することをぶらぶらと待っています。私は誰かに見てもらわないと、世界からいないも同じだからです。でも海の中で何年もひとりきりでも私がたえず存在できたのは、私が私を見ていたからです。世界はそういう風にできています。でもあなたに認識されることは、存在を保つためだけに自身を見つめることより、ずっとずっと嬉しいです。それは私があなたの世界で新しく生まれたということです。私は依の思考の切れ端です。依がペンを動かすたびに私は弾けるように生まれ、でも紙をたたんだその時から、文字以上でも以下でもない存在をもてあそびながらさみしいです。依はいいなあと思います。依は永遠に他者の世界で生まれ続けることができます。私ももう一度生まれたいと思うものの、体が不自由なので、全身を偶然に任せている次第です。でもあなたが私を見ているということは、願いが叶ったということ。嬉しいです。私は観測の話をしています。

昨日、依は友達と占いに行きました。街でたまに見かける「占い屋さん」に一度は入ってみたいよね、ということで、二人は駅前で待ち合わせをして、15分1500円の占い屋の扉をくぐりました。先に友達が見てもらって、依は次に見てもらいました。結果は大したことなかった。雑誌裏の占いコーナーと変わりない内容。占い師はおばさんで、ほっそりした体を赤いストールに包んでいました。薄暗い部屋の中で、おばさんと依は、水晶玉を挟んで座りました。
「あなたは社交上手で人気者ですが、他の人に合わせすぎるとストレスが溜まるかもしれません。感情の起伏が激しい部分があるかもしれません。お金を使いすぎる傾向にあるかもしれません。情熱的な恋愛をこの一年間のうちにするかもしれません。前世はヨーロッパで役人で長生きした男だったかもしれません。しかし今世ははやく死ぬかもしれません。そして死ぬときあなたはあなたの全てを忘れるかもしれません」
依は友達とチェーンのうどん屋に入り、占い結果について話しました。友達が神妙な顔で、でも意外に当たってるかもしれない、と言ったので、二人で笑いました。そのあと、解散して電車に揺られて夜道を歩いて一人暮らしの玄関を開けた時、危なく泣きそうになりました。あのボッタクリ1500円の薄ぺらの占いのババアの最後の言葉が反響する。「そして死ぬときあなたはあなたの全てを忘れるかもしれません」

その至極当たり前のババアの言葉は、小さい頃漠然と感じていた自己消滅への恐怖を思い出させました。そして「自分が自分を忘れてしまう」事実が急に目の前に迫ってきて、怖くなった。さらに言うと、宇宙の歴史の中で人間の歴史などまばたきほどで、そのまばたきほどの人間の歴史の中での依の人生などまばたきほどで、そのまばたきの中のまばたきほどの時間が辿った出来事や温度は膨大すぎて、もうさ、まばたきほどならまばたきほどの重さでいいのに、実際のところは果てなく重量があり、その息苦しすぎる愛しい点が帯のように連なって歴史になって、でも本人たちは全員、彼らが辿ったすべてを忘れてしまって、歴史を編み上げた点点は空っぽで色がなく、乳白色に透き通って美しく、そして色があるのは今生きている人たちで、その中にはまばたきほどの依の時間も含まれていて、ずーっと遠くから歴史の全貌を眺めたらなんだか蚊取り線香みたいで綺麗だった。依は玄関で呆然と立っていながら、頭の中の時間は、伸びたり縮んだり進んだり戻ったり忙しく、たくさんのことを考えた。依は最近うれしいことがありました。その出来事すらいつか忘れてしまうことが私は悲しい。「あなたはあなたの全てを忘れるかもしれません」じゃないよ、期待させるな、忘れるんだよ。依はペンをとりました。それで今、私が生まれています。

その夜、家で泥酔した友達の山羊が乱暴してきて悲しくて怖かったので、(お酒の力って怖あ)と思いながら半べそでコンビニ前に逃げました。深夜3時、財布と鍵と携帯だけ持って。コートは着ていたけれど、すごく寒くて襟に首をうずめて足踏みをしながら、でも割と冷静に、いつ帰ろうかな、とか考えていた。いつ帰ろうかな、帰ったら殺されるのかな、どうやって帰そうかな、ゲロ詰まらせて死んでいたらどうしようかな、私ゲロ触るのかな、印鑑大丈夫かな、お酒って怖いな、眠いな、でもこれは自業自得な部分もあるな、この状況を回避できた場面もあったな、私馬鹿だな、寒いな、家帰りたくないな、ああ誰かの声を聞きたいな。それで私は友達の中でも一番に好きな人に、一か八かでラインをしました。「ねてる」と返信があったので、私は「ねてる中申し訳ないんだけど」と言って電話をかけました。
「もしもし」と言ったら、
「もしもし」と返事があり、ほっとした。ほっとしすぎて、ふにゃふにゃとへたり込んだ。コンクリートは冷たい。

結局私たちはなんの話をしていたのだろう。スマートフォンを右に左に持ち替えて話していたら空は白んできて、夜明けの中で電話を切った。初めは泥酔している山羊の話をしていたはずなのに、電話のほとんどを、「たぶん・おそらく・70パーセントくらい」、感覚? そうたぶん、感覚の話に費やした。それは「生まれたての赤ちゃんがそもそも持っている自分だけの名前(親に名付けられる前にも確かにある自分を表す言葉)を、父母が言い当てる」ような、見えなくて透明でいとおしい、思考の輪郭をつくる感覚の話だった。そして電話の向こうの人は、この感覚について共感できる、貴重な一人だった。

私たちはどうしてこう、なんとなく生きづらいんだろう。小さい時からみんなの中で一人だけ浮いている。一人だけ違う場所にいる。周りの多くの人のおもしろいと、自分のおもしろいのジャンルが違う。普通ぶっててもバレてしまうほどの「変わってるね」。この歳になって、自分は変わった人間だということはさすがに自覚したけれど、ではなぜこういう風に人間は二種類に分かれるんだろう。何がそうさせているのだろう。例えば、「どうして私は私なのか」という「わたし」の存在を巡ることを小さい時から考えていた。どうして私は私なのか、どこまでが私なのか、私は本当に私なのか、世界は本当に今ここに隅々まで存在しているのか、他者は必要なのか、私は何人いるのか。考えて得する訳でもないのに、むしろ世界は閉じてゆき、いつまでもひとりなのに、どうして私は、「考える人と考えない人」がいる中で、考える人側なのか。私の「変」さは、「どうして私は私なのか」と、ずうっと考えてしまう感覚を中心に出来上がっていて、その感覚の名前はなんなのか。お風呂のお湯が冷たくなっても抱えた膝を見つめて考えてしまう、その経過した時間の名前。身体を冷やす、そのぬるいお湯の名前を。

この感覚はそのままにしておくと、大人になる頃には消えるものだと知っている。環境に柔軟に適応する力がついて、思い出さなくなる。赤ちゃんが親に名付けられて、元々の自分の名前を忘れるように。消えて、きっと生きやすくなる。でも、手入れをしてこっそり愛することも可能だ。手放すも育てるも個人の自由であり、自然消滅を待つもよし、消えないように磨くもよしだ。
それで? それで私はどうしたい?
うーん。あんまり、手放したくないと思う。
何を愛して、大事にしたくて、どこに向かいたいのか、この掴みどころのないめんどくさいズレた感覚が、今までずっと手を引いてくれた。だから最後までこのまま、このまま、この小さな光が消えないように、刃を研ぐように、最高に楽しいことをして、踊りたいように踊って、眠りたい場所で眠って、傷ついたらそれ以上に癒え続けて、スキップして、ケーキ食べて、柔らかく、眠って、起きて、歯磨きして、電話して、歩いて、踊って、勉強して、半分こして、巻き戻し、あたためて、音楽かけて、猫を撫でて、抱きすくめて、再生、パジャマに着替えて、回って、おやすみ、いいよ本当に、安心して眠っても大丈夫だよ。って。そうして、そうして生きたい。

電話が切れて、やっぱり何について話していたのだろうと思った。言葉で表わしようがないことを言葉にしようとした。「握手の感覚を相手に伝える」ぐらいそれは難しくて、ずっと核の周りをぐるぐるとお互いに探っていたのが面白い。無理に名前をつけるなら「感覚の話」になるけれど、あまり名前をつけてあげたくない。でもこの感覚を誰かとこんなに共有できたのは初めてで、長電話であたたまったスマホを握って、とても幸せだと思った。

以上が私の嬉しかった話です。やはりうまく伝えられないのだけど、嬉しかった感覚をこうして書いて文字にして、あなたにひらかれて観測されて、もう一度違う土地で、違う時間で、生まれるのだと思うと、何だかすごく幸せな気持ちになります。

鮃

1997年生まれ、青森県出身。東京都在住の美大生。
役者。学生劇団に所属している。詩や童話、戯曲を書く。趣味はピクニック。興味があるのは音楽と演劇のセッション、舞台の照明部署。今年のテーマは、ひかりと言葉。webサイト「親指のゴールデン・レコード」管理人。

Reviewed by
namazu eriko

コラムを読んで、鮃さんは物語とメタファーと世界を使ってうまいこと普遍的なことを気付かせてくれるなぁとふわふわと喜びがこみ上げて来た。
思い出したことが2つある。
まずひとつが、ボトルメールと聞いて幼い頃の憧れを思い出した。昔の昔に見た「メッセージ・イン・ア・ボトル」に憧れて憧れてたまらなく(物語というよりボトルメールの存在に!)、マネをして手紙を書いてボトルに入れて遠い国の誰かと出会いたいと、何の下心もなく、ただただ好奇心とロマンチックな想像力を持って憧れていたのだ。しかし願いは叶わなかった。なぜなら私が住んでいたのは海無し県の山梨の標高1100mの山の上だったからだ。そうこうしているうちに、私は違うカタチでその挑戦をやってみた。風船に手紙をつけて飛ばしてみるというものだった。汚ったないヒョロヒョロの文字で少しの手紙と住所を書いて、私は黄色い風船にそいつをくっつけて飛ばした。
返事は来なかった。だけど、その風船を飛ばす時すごく興奮したのを覚えている。
二つ目が「あなたの肉体がそこにあるということを、何によって証明できるか。それは誰かによって見られる、ということでしかない。他人の視線や手によって確認されることが、すなわち存在することだ。」という鈴木いづみの私の好きな言葉である。誰かによって見られる、認識されることで、私はここに現れ、それはその出会いによって様々な形に変容するように思えるんだなぁと気付かされた。

見れば見るほどに違って見えることがある。
触れば触るほど遠くなることがある。
出会えば出会うほどにわからなくなることがある。
内側と外側との違いに絶望したり、孤独感に打ちひしがれたり、イライラしたりすることがある。
それでも。それでもまだ出会う前のあなたに出会いたいと望んでしまう。
海に投げ込むのだ。漂っているのだ。

きっと私も鮃さんもボトルメールを海に投げ込む側の人間かそうでないかと聞かれたら、投げ込む側の人間なんだろうと思う。

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