「くっせー!電車の中ってまじくせーよな!」
乗車してきた小学生男子がそう言いはなった。小学生男子たちは私の前を通り過ぎ、少し遠くの座席へとむかう。表情や手が生き生きと大きく動き楽しく話している様子が遠くの私にまで伝わってくる。うーん、表情や動作を通した気分の伝染力はあなどれない。実際、彼らが乗車してきただけでさっきまで眠たげだった車内の雰囲気がガラッと変わったし、私なんて一言も話していないのにちょっと愉快な気分になっている。共感能力、おそるべし。。体は共感しあう。悲しんでいる体を目の前にすれば、こちらの背中まで丸まってしかめっ面になっていくし、楽しんでいる体を目の前にすれば、どことなくクスクスと笑いたい気持ちになってくる。相手がなんで泣いているのか笑っているのかなんていう理由を必要としない、脳みそを経由しない「身体的な共感」。
このあいだ、長年連れ添ったカップルの写真を使った実験について読んだ。結婚したばかりの複数の男女の写真を夫婦がセットになるように合わせるというもので、結婚して25年後に撮った写真とその正解率を比較するというものだ。25年後に撮った写真の方がうんと正解率が高いという結果だったのだが、印象に残っているのはこの類似性が幸せなカップル程大きかったということ。近くにいて沢山感情を共有しているうちにお互いがお互いの中に入ってしまうのかもしれないな~と、ほっこりした。
近頃ではダンス映像作品も増えて、劇場に行かなくても多くの人が映像でダンスを目にする機会がふえた。それはとても喜ばしいことだがダンス関係者はいまだに「ダンスはやっぱりライブでみてほしいよね…」とライブ上演にこだわる。それはなぜだろう。ダンサーは本人の体をコントロールするだけではなく、その体の延長とでもいえるようなイメージやオーラまでを意識して踊るように日々トレーニングしている。映像には映らないこのオーラのようなものをダンスが大切にしてきたからこそ、いまでもライブ上演が重要視されるのだろう。そのオーラは、目線から、息づかいから、筋肉の弛緩から、生身の体同士が向き合ったときに溢れだす。人と向き合ったときに相手の気分を知らず知らずのうちに感じてしまうのは、猿時代から何千年も受け継がれてきたこの生物としての本能だ。ダンスはその本能を際立たせる。
満員電車に乗るときに隣に立つ人を感じないようにしているように、現代生活をしているとふとした時に人の体を無視している自分に気づく。猛スピードで作り上げられた人間社会に適応できないまま、生物としての能力に蓋をしているような感じがして不安な気持ちになる。
いちど体に聞いてみたい。おーい、からだよ、人が人として生きられる場所に連れてっておくれ?
私はそこにダンスの可能性をみてしまう。