時間は真珠のネックレスのように。
26日目のバラ2本。ドアをあけると部屋中にバラの香りが漂っていた。
やってきた日はシャキッと上を向いてやる気に溢れた顔をしていた2本だったが、26日が経ったいまではよぼよぼのおじいちゃんおばあちゃんみたいな顔をしている。その姿は部屋での存在感をどんどんと増し、ここ数日は最後の祭りだとでも言わんばかりにいい香りをふりまいている。寄り添いながらよぼよぼしている様子が愛しくて、心配で、帰宅して一番に花を確認する。こんなに大切に想ってしまうのは、あと数日の命だと知っているからだろうか。
私は数年間ツアー生活をしていた。世界中のホテルからホテルへと移動する、時差ぼけとの共同生活。その生活の中、私は時計が嫌いになった。夜になりましたよ、朝になりましたよ、と時差ぼけの体にそぐわない時間を命令される感じがどうにも嫌だった。夜だってどこかの朝じゃん、と夜中に仲間と連絡を取りあう日々。深夜のホテルですっかり時間迷子になった私は、時計のかわりに花瓶の中で枯れていく花をみつめる。“時間” は確かにここにあるはずなのに。
「あなたが現れた瞬間、時間がとまったわ」終演後、観客からそう感想をもらった。時間がとまる、早送り、スローモーション。ダンスを伝えるときによく使われる言葉たちだ。時を忘れて体に集中するダンサーの姿は、子どもが世界を経験する姿に重なる。走るために走り、匂うために匂い、見るために目をあける。体で出会う世界の景色。心臓がはちきれるほど走る瞬間、温泉の中で溶けるようにほどけていく瞬間、満員電車で息が詰まるおもいがする瞬間。大人になった今でも、体で経験した時間にはやっぱり個性がある。楽しい時は短く、退屈な時は長く。星の動きをもとに時計が作られたように、個人の感動をもとにあらわれる時間。人間として時間を経験するとは、感動によって伸び縮みする、カラフルでデコボコな時間を過ごすことなのかもしれない。体の時間は確かにここにあった。
まるで真珠のネックレスのように、色味の違う、サイズも違う、デコボコの時間たち。
それは体をとおしてみる世界そのものであり、世界への感動の連なりなのだ。
目の前にあるバラは、時間と共に枯れていく。
見つめ、匂い、心配する、私とバラとの時間。
茶紫色のいい香りがする真珠の一粒。
2020年、美しい瞬間が煌めきますように。