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3F/長期滞在者&more

身体の在処

長期滞在者

12月に入って私の住んでいる大阪でも、風が本格的に冷たくなってきた。いたるところで木の葉が風に舞いあげられて、まるで枯葉がダンスをしているようだ。今年の冬もモネは散歩中、冷たい風に吹かれると「帰る!」というかのように座り込んでしまうので、めんどくささを感じつつも玄関先で服を着せている。私もモネに負けず劣らず寒がりなので、ダウンを着たり手袋を付けたり防寒しているのだが、今年一番大活躍しているのは8月に編んだスヌードだ。8月は編み物を始めたばかりで何から編んでいいかさっぱりわからず、とりあえずYouTubeで何か編めそうなものはないかと動画を探してた。たまたま見つけた「初心者でも簡単にできるスヌード!」というタイトルに惹かれ何度も再生しながら、おぼつかない手で編んだ。あの時は今よりずっと調子が悪く、フラッシュバックに襲われてない時でも、ずるずる底なし沼に嵌っていきそうだったのだけど、それに抵抗するかのように、泣きながら必死で編んでいた。そうやって涙を流しながら編んだスヌードが、本格的に寒くなってから私を温めてくれているというのはとても不思議だ。

11月には初めて手袋に挑戦してみた。初心者の私には複雑な編み図だった上に、細い毛糸で編んだため編み目がとても見にくく何度も編み間違えた。うんうん唸りながら編み図を見るたび編み間違えが発覚し、編んでは糸を解き、また編んでは解きと、途中で挫折しそうになりながらも2週間くらい編み続け、ハサミでチョキンと最後の糸始末をして完成。「やっと編めた!」とウキウキしながら手に付けてみたのだけど、甲の部分だけ若干大きい気がする。編み目の大きさをまだうまく揃えて編めないせいだ。でも、1作目の手袋にしては上出来だと思って、早速手袋を付けて外に出てみる。雲に覆われている寒々とした空から、身をすくませてしまうような冷たい風が吹き付けてくるのだけど、自分で作った手袋はたとえ編み目がうまく揃っていなくても、お店で買ったものよりずっと暖かく感じる。

次は、レース模様でよく使われる「パイナップル模様」の巾着を編んでみた。小さい巾着だったのですぐ編めるだろうと高をくくっていたのだが、こちらも編み図を読むのに苦労して、完成に3週間くらいかかったのだけど、ただの白黒で無機質な編み図が、少しずつ手元で美しい模様になっていくのがとても楽しく、まるで毛糸玉に魔法をかけている気分だった。編み終わった後は何度も模様を手で触りながらうっとりし、下手なりにもこんな素敵なものを編めるようになったことが今だ信じられないでいる。

私は小さいころから家庭で息苦しさを感じ、これは一体なんなのだろうと思って生きていた。段々成長するにつれ、家の至るところでこんな標語が見えてくるようになった。「欲しがりません勝つまでは!」。その標語は、私を家族の内に留めてしまい、身体にぐっと楔を打ってくる。そして病気になってからは不思議なことに、家族が献身的に私をケアをすればするほど、楔が深く打ち込まれ私の身体は自分の物ではなくなっていった。体調の悪い時、酷い無力感に襲われるのだけど、それは他者に身体を奪われている感覚だ。編んで作品を完成させた時は、奪われた身体を少しでも取り返した気持ちになる。

6月に自殺未遂をした後、精神科の医師にカウンセリングを受けるようにと何度も勧められた。カウンセリングは大体1回1万円位し(もちろんもっと高いところもある。ある有名なカウンセラーは1回2万5千円だった)これを毎週受けなくてはならない。私の家の経済状況ではとても厳しいのだが、背に腹は代えられないと思って2回ほど受けてみた。しかし1万円を二回も出した割には何も効果が得られず、また、辛いことを話すと、普段曇りガラスの向こうでしか再生されていなかった痛みを伴う過去がくっきりクリアーに見えてしまうので、後で寝込んでしまう。そこで、カウンセリングは一旦止めて本を買い込んだ。自分の抱えている色んな問題にヒントをくれそうな本を沢山読めばいいのでは、と考えたからだ。しかし、読み始めると胸の傷がぐりぐり抉られてしまい結局これも読めないでいる。6月に死にかけたばかりなので、暫くはわざわざ苦しくなることをして体調を悪化させるのも良くないだろうと思い、カウンセリングも本を読むのも止めてしまった。

カウンセリングや本で自分の問題を解決できずに困っていたころ、以前読んだ、トラウマ療法で有名なヴァン・デア・コーク氏の『身体はトラウマを記憶する』を思い出した。この本は、虐待や性暴力などのサバイバーに対し、言葉を使ったカウンセリングや薬物療法ではなく、演劇やヨガなど身体に働きかける治療を紹介しており、そのうちの一つ、「フェルデンクライスメソッド」ならすぐ始められそうだった。ネットで早速プラクティショナー(フェルデンクライスメソッドでは指導者を”先生”と呼ばずこう呼ぶ)を検索し、8月からzoomで受けているのだが、これがとても良い。レッスンを受けていなかったら今だ私は常に沼に嵌らないよう毎日息を切らせながら足掻いていただろう。

フェルデンクライスメソッドというものは、ユダヤ人の物理学者モーシェ・フェルデンクライスが考案したメソッドだ。自分で自分の身体をつぶさに観察し再教育することで、無意識の習慣を手放し新しい回路を作ることが出来る。と、書いたものの、これを読んだ人はさっぱりわからないと思う。フェルデンクライスメソッドについて分かりやすく一言で書くことはとても難しい。なぜなら、レッスン中にやっていることは、言葉で説明できない身体の奥底での対話だからだ。

Zoomに入りレッスンが始まると、床に寝転がって肩や腕、腰や足など、全身のどこが床から浮いているか、どこに痛みを感じているか、各部がどのように付いているか、目を瞑って体の探求をする。ここからレッスンが終わるまでずっと目を瞑って自分の体と向き合うことになる。レッスン中はプラクティショナーの声の誘導に合わせて体を動かすだけで、動きの正解は示されない。自分の体と向きあい、自分にとっていい動きを模索する時間なので、「正解」は与えられないのだ。プラクティショナーは非常にゆっくりした口調で「足を立てて、両足を軽くゆっくり左右に揺らしてください」、「右向きに横を向いて右手を少しだけ何度もスライドしてみてください」と誘導し、私はまるで催眠術にかかっている人のように、小さくゆっくりした動きを繰り返す。この「小さく、ゆっくり」というのがミソで、小さければ小さいほど、ゆっくりであればゆっくりであるほど、どんどん体の声が聞こえてくる。今まで何年も酷く体中が痛かったせいでどこがどう痛いのかも分からなかったのだが、まるで痛みをサーモグラフィーで表したかのように、場所ごとに細かく痛みの程度が感じられるようになった。更に肋骨や背骨の何番が動きにくいなど、段々骨まで見えてきた。レッスン中、体が痛くて出来ない動きもあるのだけど、痛い動きはしなくてもよく(モーシェ曰く「努力は何も生まない。体を壊すだけ」)動きを想像しているだけでよい。やってみると想像しているだけでも筋肉が動いてるのがわかる。最初は想像するだけなんて何も改善しないのではないかと疑っていたのだけど、何度も動きの想像を繰り返すと痛かった個所が後からスムーズに動かせるようになるのに驚いた。

小さな動きを繰り返している間、普段全く意識していない体の奥が動いていることに気が付く。腕を伸ばすという行為一つとっても、背中や腰、足など体中の各部が対話しあって、どんどん協力し、皆で音楽を奏でるかのように身体が動き出す。今まであらゆるところの痛みが邪魔してるせいで体の各部がてんでバラバラに動き、手を伸ばす時は、首や、背中に負荷がかからないよう、二の腕から先を一生懸命動かしてたけど、そうすると全身に緊張が走り体が余計に痛くなるようだ。レッスンを始めてから、日常の些細な動きでも全身が協力し小さな力で滑らかに動けるようになり、痛みがかなり楽になった。そしてなんと、レッスンを受けるまでは、週に3回、7年間も通い続けた痛み止めの点滴が、1週間から10日に1回でよくなったのだ。

線維筋痛症になって12年間、私は体の痛みに対して無力だった。痛くなると診察室に駆け込み、処方される色んな鎮痛剤を副作用に悩まされながら飲み、輸液につながれ痛み止めの点滴を流し込んだ。ヨガや太極拳など、線維筋痛症に良いと言われるものは片っ端から試したものの思ったほどの効果が得られなかったせいで、代わりにどんどん医療に頼り、医者の言うことを熱心に聞く「真面目な患者」と化していった。しかし、どうも真面目に医療にかかるという行為そのものが、自分で自分の体を診るという力を奪っていたようだ。人類は西洋医学によって、色んな病気に打ち勝って寿命が延びているのだけど、人の体をコントロール下に入れた結果、人が本来備えている自分を診る力とか治す力を奪っているのではないだろうか。

1時間ほどのレッスンを終えると目を閉じたままゆっくり立つように促される。「まだ動かないでください。立った感じはどうですか?」というプラクティショナーの声がする。立った時は、いつも頭がぼんやりして眠たく、ずっとこのまどろみの中に浸かっていたい気分だ。しばらくじっと目を瞑ったまま体を感じていると、レッスン前より明らかに背中が広く、胸が開き、足がしっかりと地面を掴んでいる。ゆっくり目を開けてみて周囲を見渡すと、いつもより視線が高く視界が広い。体中の緊張が解けて、胴体の深いところで息をし、いつもより長くゆったり呼吸をしている。首の下だけ動かしていたのに、目や顔のこわばりも取れ顔が涼しい。さっきまで抱えていた重苦しい気持ちがどこかに飛んでいきとても穏やかだ。

レッスンを重ねるとどんどん足腰がしっかりし、背中が広くなっていく。それに反比例するかのようにフラッシュバックや不安に襲われる頻度は減ってきた。レッスンを受けだした8月くらいは、道を歩いているだけでしっかり締まっていたはずの記憶の引き出しがパカッと開き、ずるずる過去の記憶に体が飲まれ動けなくなってしまい、歩道の端に坐りこみながら泣き出すことがよくあった。こんなことがよくあるものだから当時は出かけるのも不安だったのだけど、10月からは散歩してる犬たちや赤や黄色に染まっていく街路樹を眺めながら、不安を感じず外を歩けるようになった。一般的にフラッシュバックや不安の強さは、精神的な問題ととらえられているけど、体がそういう状態になってしまっているので体を変えてやればいいのだ。モーシェはフロイトを尊敬していたのだけど、フロイトの療法はクライアントの身体に現れる不安などの兆候に焦点を置いていないと指摘する。モーシェによると「身体と精神を分けて捉える方法はもはや役立たない」。

フェルデンクライスメソッドは編み物でも大活躍している。8月に編み物をし始めた時は、じっと座って細かな糸に集中していると、もともと痛い体が悲鳴を上げ始め1日30分もしたら限界だった。しかしここ最近は休憩をはさみつつ3時間くらいは編めている。いつも編み物をしていると左肩が上がって、左腕まで痛くなってきてしまうのだけど、レッスンを日々繰り返しているとその習慣をピアノの調律をするかのようにリセットすることが出来る。最近は、左肩の上がり具合も減ってきているので、編んでいる最中、体の色んな所が協力しながら編めるようになっているのだと思う。

レッスン中、どんどん体が協力して動いてくれるのを感じていると、子供に戻って自分の体で遊んでいるような気持ちになる。まるで自分という自転車に乗る練習をしているようだ。モーシェはレッスンに赤ちゃんの発達段階の動きを沢山取り入れている。赤ちゃんもきっと、このレッスンのように色んな心地よい方向に体中を動かしながら体の奥で新しい回路を作り、立つまでの過程をたどるのだろう。先日レッスンが終わってゆっくり立った時、骨盤や股関節の位置、背中や背骨の具合が正に”しっくり”来て、いつもよりぐっと下に来た重心が体をしっかり支えてくれていた。そして私は心の中で叫んだ。「これが「立つ」ということか!!」。ヘレンケラーが「Water!!!」と叫んだ時もこんな気分だったのではないだろうか。どうやら私は、30年以上ハイハイ状態だったのに無理やり立っていたようだ。もちろん元気な時は、一見ちゃんと立って沢山歩けていたのだけど、今考えればあの立ち方は股関節も骨盤も背中も全く協力していなかった(よくあんなので歩いていたな、そりゃ体を壊して当然だ)。レッスンを毎日やったお陰で、この年になって、やっと二足歩行ができるようになったのだ。

赤ちゃんは、ただ自分の身体と遊びながら自然に立てるようになる。しかし、私たちは言葉を獲得していくにしたがって、自分の体と向き合って対話せず、周りに氾濫する言葉に合わせて体を動かし、本来自分が欲している動きを奪われているのではないだろうか(例えば、「女性ならば足をきっちりそろえて座るべき」など、女性の身体の自由を奪う言葉は沢山氾濫している)。そう考えた時、「病気」に対する考え方が変わった。今まではお医者さんが言うように、「ウイルスに感染したから熱が出た」とか「セロトニンやドーパミンが足りないからメンタルに来る」とか考えていたのだけど、それは結果論でしかない。もともと「病気」というのは、言葉以前の自分の身体が欲している動きと、周りの言葉に操られて動いてしまう身体のずれが大きくなった結果なるものではないか。私はずっと、「私の身体」がしっくり来ず、全くサイズの合わない服を着ているみたいに感じてた。そのズレが最大になってしまった6月19日、「私」は「私の身体」を殺そうとした。しかし、最近は、「私」と「私の身体」がちょっとずつフィットしてきているのを感じる。

レッスンの後は体のこわばりが取れて、染みついていた緊張も緩くなる。過去に体を緊張させこわばりながら生きていた時、身体にくっきり刻まれたしこりが少しずつ融解し、新しい身体を紡いでる。先日、緊張の取れた体を味わっていると、とても静かで穏やかな時間だけが流れていた。部屋にあるベッドも毛糸も洋服も本も、何も私を追い立ててこず、ただ私はそこに居た。

「ああ、これが「安心」なのか」。

今まで私は安心というものは外にあるものだと思って、まるで迷子の子供のように探し求めてた。それは他者に奪われた身体を探す試みだったのかもしれない。きっと中学の時、拒食症でどんどん痩せていったのも、身体を奪い返す試みであり、それが「安心」になっていたのだ。しかし、安心はすでに私の内に宿っていたし、「私の身体」もここにあったのだ。

                    (おまけ)さっき編み終わった、星模様のベレー帽

                

★フェルデンクライスメソッドについて詳しく知りたい人は、『脳はいかに治癒をもたらすのか』の215ページから、モーシェの歴史やレッスンで困難を抱えた人がどのように改善するか(中には現代医学では治らないとされている視覚障碍者が視力を回復させる例も載っている)が詳しく知れて大変面白いのでお勧めします。

久里子

久里子

1985年生まれ。線維筋痛症、慢性疲労症候群を患って12年目。

いつか書く仕事がしたい人。

最近は編み物とフェルデンクライスメソッドばっかりやってます。

Reviewed by
Maysa Tomikawa

自分の状態を理解するのって、どうしてこんなに難しいんだろう。とくに、人目を意識して生きてきたとか、家庭が厳しかったとか、人それぞれいろんな理由があるにしても、自分自身の人生なのに、別の誰かの価値観を押し付けられて生きてきた人にとって、自分自身の体、心の状態を理解するのって、何よりも難しいんじゃないんかって思ってしまうことがある。

私は口下手な分、ノートに自分の気持ちや体の状態、考えていることや、目に見たことをそのまま書きなぐって、気が遠くなるほどのページ数を費やしてきた。だから、わりとそれはできるつもりなんだけれど、それでもやっぱり、なんでこんなことに気づけないでいたんだろうと思うことだってたくさんある。

瞑想はそういうことを理解するのにとてもいい。フェルデンクライスメソッドも、そんな感じなのかなとぼんやりと思う。自分の体の細かなところまで意識を研ぎ澄ませて、それ以外のことは考えない。マインドフルネス状態で、自分自身の体とだけ向き合う。多分、そういう「自分の体or/and心の細部の細部までを意識すること」が、心身の痛みを軽減させることに関係しているのだろう。


私たちの体には、無数の骨、関節があって、血管なんて合計すると何キロの距離になるんだろうって気が遠くなる。ニューロンの数なんて、途方にくれるような数字だ。脳の細胞やホルモンの一つ一つが勝手に動いてくれていて、体と心を維持している。人の体の働きは、それこそ精密機械よりもはるかに精密で、複雑で。

その複雑な仕組みに目を向けて、関節の動きや、筋肉の動き、呼吸、血管の中を流れていく酸素原子のひとつひとつにまでフォーカスするほどのマインドフルネス、自己との向き合いでしか、救えない痛みがこの世には存在する、と私は思う。体の声は、心の声。両方を理解して、向き合って、受け止めることでしか、辿り着けない境地があるとも思う。もしかしたら、偉大な先人たちがいう天国や涅槃というのは、そういう境地のことを指しているのかもなぁ、とふと考えたりして。もしそうだとしたら、少しワクワクするかもしれない。

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