
運命というと、自分の人生がひとつの道として決まっているような感覚を持たされる言葉だね。
人は日々過ごす中で、多くは短期の選択をしていく。
例えば、お昼ごはんに何をたべよう、とか。
午後の仕事はどの作業からとりかかろうか、とか。
もちろん、中長期的な選択もあるだろう。
5年後にどんな社会的なポジションいたいかな。どう行動したらいいだろう、とか。
どんな恋人とだったらうまくいくだろう、そのために、どこで出会えるだろう、とか。
その、いろんな選択、些細なものから、大きめの意思決定とその結果の連なりを、一本の線につないで、あとから振り返ったときに、自分や誰かが認識するストーリーを運命と呼ぶのかな。
それは運命論、つまり最初から最後まで決まりきっているものなのか。
それとも、自由意志や偶然が大きく作用する、振れ幅のあるものなのだろうか。
今日はそんな事を考えたい。
例えば、自分がフィクションの主人公だったらどうだろう。
運命は作家によって決められているんだろうか。
ナボコフの作品「ロリータ」について考えてみよう。
「ロリータ」は、あの有名な言葉「ロリータ・コンプレックス」の語源にもなったというエピソードがある、少女趣味の怪物中年、ハンバート・ハンバートが主人公だ。
そのハンバート・ハンバートが運命捧げる相手が、ロリータ。
冒頭はこんな感じ。
Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。(若島正訳)
韻を踏みながら、我が生命の光。そして我が魂とまで言い切る、まさに運命の相手だね。
大雑把にストーリーを説明すると…うーん、やはりやめておこう。
「ロリータ」は、少女趣味の変態小説というだけではなく、コメディだったり、ロードムービー調だったりという多様な読み方のできる作品で、その中にはミステリーの要素も強いので、ネタバレは避けたほうがいいと思うから。
ハンバート・ハンバートは、自身の望み通りロリータに人生を捧げて、火達磨になるとだけ伝えておこう(これは誰にでも予想できることだから大丈夫だろう)。
でもそのハンバート・ハンバートにも、ちょっと違う人生になる契機は、たしかにあったと思うのだ。
小説の中で分量としては少しだけど、終盤近くで大人の女性と共に暮しているシーンがある。結局ハンバート・ハンバートはその部屋を出て行ってしまうのだけど。
その女性から離れる時、彼女は寝ていたんだね。
恋人のおへそに別れの手紙をセロテープで貼り付けて、ハンバートは旅にでる。
おへそにお手紙?
ひどいコミュニケーションのようにも感じるけど、また一方では、なんだかかわいい感じもするんだ。
普段から、おもしろいやり取りを2人でしてきたのかな、と想像できるから。
もしハンバート・ハンバートが彼女と一緒にその後の人生を過ごしていたらどうなっていたかな?
小説としては締まらないかもしれないけど、少なくとも、その後彼に起こるアレコレよりは、もう少し穏やかで落ち着いた生活を送れていただろう。
そして作者のナボコフだって、そんなエンディングになる可能性も少しは検討したんじゃないかな。
もちろん緻密すぎる文章と構成で有名な作家だから、書き始めた時から、全体のアウトラインが決まっていたのだろうけど。
でも、小説家のインタビューを読むと、書いているうちにキャラクターが動き出して、ストーリーも引っ張られてどんどん変わっていく事が多いらしい。
ハンバートがあのような人生だったのは、運命なのかそうじゃないのか。どうなんだろうね。
さてさて、運命というと、國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」の話もしたくなる。
この本の増補新板には「傷と運命」という論考が追加されている。
一部をまとめてみよう。
人というのは、生きていると傷を負うものである。何もしない退屈な時間は、その古傷となった記憶に苛まれ続ける。だから人は新しい事を始める。新しい事は、もちろん人を傷つけうる。これが人の運命だ。
この「傷と運命」という文章は、僕にとってかなり大きなインパクトだった。
なんで僕は起業なんて面倒な事をしたんだろう。
そして今再び起業しているんだろう。
そんな自問自答が、この文章を読んではじめて生まれたんだ。
僕はこれまで、起業以外の道もけっこうがんばって模索してきた。ベンチャーの会社で働いてみたり、逆に大きな会社を試してみたり。
でも、だめなんだ。
どうしても他の道をうまく歩けなかった(起業ならうまくできるという訳では、もちろんない)。
「傷と運命」を読んだあとだと、ああ、これは人としての僕の運命かもしれないなと、すっと思った。
傷を負わない人はいないし、傷があるからこそ、新しいことをはじめる。それが運命というのならば、たしかにそうだなって。
ご多分にもれず、僕も大きな傷を負っている。
致命傷になりえる様な深手が、少なくとも2回。よく考えると、4回。
それがどんなものかは、詳しくは述べないけど、2回の痛手と、2回の起業は、響き合っているような気にもなってきた。傷と運命。
そろそろまとめよう。
ハンバート・ハンバートは、(大いに身勝手ではあるけれど)ロリータに人生を捧げるという運命を全うした。でも、他の運命を選び取る可能性もあったのではと僕は考えた。
僕もまた、まるで決まっているかのような運命を捨て、いつだって異なる運命を選ぶ余地もあるのだろう。
と書くと、少しかっこよくなってしまうね。
僕が言いたいのは、自ら選べるのは運命ではなくて、傷だけなのかもしれないということだ。
これなら引き受けよう、仕方ないと思える傷を、自分で決めること。
古い傷を捨てよ、そして新しい傷へ。
これが僕の運命の捉え方だ。