
人はどうしたって正確に見積もりをたてることが苦手だ。
ITシステムの開発の見積もりも難しい。
簡単だったら、炎上案件などめったに起きないだろう
ふつうの小さな作業だって、その難易度やかかる工数を事前に把握するのは、困難だよね。
年末年始も然り。
この毎年やってくる長めの休みで、やりたい、やろうと思っていることが沢山あっても、実際には見積もり通りに進むことはめったにない。
例えば、こんなことを、僕はこの年末年始でしたいと思っている。
・積ん読していた本をたくさん読もう。
・いろんな人に連絡をしよう。
それに加えて、来年に向けての仕事の整理をたくさんしたくもある。
・ビジョンを見直したり、
・四半期ごとのゴールを考えたり、
・数値の計画をつくったり
・プロダクトをどうよくしていくかの設計を考えることもしたい。
・年明けのMTGに向けた準備もしておきたいね。
といっても、頭の中がわちゃわちゃしているだけで、僕の実際の生活はというと、だいたいコーヒーを淹れたり、お昼寝をしています。
なんせ今年の後半はよく動き、その分つかれたからなあ。休憩は大事だ。
そしてあっという間にこの休暇は終わるのだろうね。
「ぼく何して過ごしていたんだっけ?」と呟きながら。
長期休暇を休息に当てることは、全くもって悪いことではない。というか、休むのが本来の目的だ。
問題は、「これだけ時間があるのだから、いろんな事ができるだろう」という見積もりにあるんだろう。
そしてこの問題は、何にでも言えてしまう。いつも僕はこう考えがちだ。
「人生は長い。いろんな事ができるだろう」
人生はたしかに長い。例え僕が明日バスに轢かれて死んでも、充分生きたと思える。
それでも、人生に願ったことをやっていく生涯は、時間があるというだけでは、きっと叶わない。
だからゴールから逆算して、アクションに優先順位をつけていく、というやり方があるのだね。
50代でこうなるために、40代は何を実現して、そのために30代では云々。
しかしこれもまた、見積もりというものが難しい以上、思ったようにうまくはいかないのだと思う。
というか、まとめて作業をする、という先送りの発想がたぶんよくないのだ。
では、どうしたらいいのか。
僕が思うに、「やりたいことを、日々ちょっとやる」というのが一番着実なのではないかな。
やりたいことを、毎日少しでもやると、結果として人生で大きな時間を費やすことになる。そうすると、やりたいことをやった人生に近づくことができる。
毎日絵を描く。
毎朝小説を書く。
こんなルーティンを生活の中に組み込むことができたら、その人は生涯を通して絵を描いた人であり、小説を書いた人だ。
つまりそれは、画家であり、小説家というにふさわしい人なのだと思う。
違うパターンを考えてみよう。
人生で3ヶ月だけ絵を描く。
そしてその絵が歴史的な大傑作との評判を得て、お金持ちになる。
しかし、二度と絵は描かない。
この人は、画家と言えるのかな?
世間では、というか、肩書を何より重視しがちなメディアでは画家として扱われるのだろうけど(しかも大作家として)、でも僕は、生涯を通して絵を描き続けた人の方こそ、画家と呼びたいな。
そのうえで経済的に報われたら最高ではある。
でもその人が何者だったかを語るには、外部的な達成よりも、その人が人生を何に費やしたかのほうが有用な語り口なのではないかな。
「〜になりたい」という人より、「〜する日々を過ごしたい」という人のほうが、なんというか、よりリアリティをもっているような気がしちゃうし。
人生の見積もりはきっと誰もうまくできない。
それより日々を、ルーティンワークを、愛せるようにしていくこと。
なんらかの達成を目指すのであれば、そのための試行錯誤それ自体を楽しめるようにすること。
その前提は、「疲れたら休め。転んだら立ち上がれ。死ぬんじゃないよ」だ(これは中山可穂の小説「天使の骨」にでてきた台詞)。
日々のちょっとずつの達成を誇らしく思いつつ、でもまあ、無理せずやっていけたらいいね。
さて、そろそろもう行かないと。
ではまた来月。