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企業アイデンティティは人を殺す?

ひとと企業のPlaybook

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さて、Playbookの連載がはじまりました。
連載開始前のごあいさつでは、とても多くの疑問をリストアップしていましたね。
改めて読んでみて思うのは、働くひとと、企業のアイデンティティをめぐる話をぼくはしたいのだな、ということです。

という訳で手にとったのがこの本。

「アイデンティティがひとを殺す」
アイデンティティが人を殺す書影

■アイデンティティをもつこと

人は、自分がほかの人ではないという固有性によってアイデンティティを持つ。

それは、多くは何に属しているかによって形作られて、どのような経験をしたかによって強化される。

代表的なのは、人種、宗教、国籍、性別、出身国、言語など。
両親や祖父母たちが、どのようなアイデンティティを持っていたか、その系譜にどう継っているかにもよるだろう。

この「アイデンティティが人を殺す」の著者は、アラブ系キリスト教徒のフランス人という複雑なルーツをもつ。

その彼がよく問われる問いは、「それで、あなたは(本当は)なんだと思っているの?」。

フランスにずっと住んでいるけど真の自分はアラブ人である、といったような答えを期待されているのだ。

著者は必ずこう返事をする。

「私を構成する全部の要素は、それぞれ切り離せない。真にひとつだけのアイデンティティなどなく、全てがわたしだ」

しかし、著者のこの返答を聞くと、みな怪訝な顔をして去っていくのだそうだ。

■企業に所属するというアイデンティティ

「アイデンティティが人を殺す」は、文字通り帰属コミュニティ(地域、宗教、民族など)が、ほかのコミュニティに対して殺人や、もっと進むと虐殺を行う、そのプロセスや暗黙となっている前提に対して考察を進める本だ。

この本を読んでいくと、ぼくが周囲のひとを見た時にアイデンティティの根拠として提示しがちなとても大きな要素「勤め先」がほとんど表現されないことに気がつく。

これはぼくだけがもつ違和感なのかな。

読者のみなさんの周囲で、勤め先の企業を、自身の強いアイデンティティの要素にしているひとはいないかな。あるいは、読者のあなたがそうだったりしないかな。

例えば、大手の広告代理店にいるのだ、と強く自我をもっている人。新進気鋭のベンチャー企業でCXOであるひと。日本を代表するメーカーにいるひと。社会課題に向き合うNGOにいるひと。

ぼくはたまにビジネススクールの単科講義を受講する。

大体40人くらいのひとがいて、互いに自己紹介をするのだけど、ほとんどの場合、所属企業を教えてくれる。
どんな会社で、なにが強みで、業界の未来はこう予測されていると。

「それはビジネススクールだからじゃないか」という声もあるだろう。

でも、そこには個人としてスキルアップのために学校に来ているのだから、なかには「所属企業」ではなく「職業」についての説明が先にくるひとがいてもいいんじゃないかな。

例えば、特定領域の専門家として研究を重ねた結果、いまどの企業のどこの部署にいる、といったような。
なんなら「こういう仕事に就いているが私は詩人だ」とか「批評家だ」とかね。

そういうひとをぼくは見たことがなかったな。

あと、ぼくはいろんなコミュニティや組織、たとえば大企業、スタートアップ、NPOにすこし出入りしているのだけど、自己紹介ではほとんど場合、どんな会社でどんな仕事をしてきた、何さん。だ。

たとえばその打ち合わせの後に誰かの恋人が来ても、やはりそこで彼/彼女が語るのは、これまでの所属企業の変遷だったりする。

なぜ、周囲のみなは、ぼくは、その人固有のことを知りたいはずなのに(そのための自己紹介だよね?そこからして違うのかな)、企業というよくわからないものを説明し、納得しあってしまうのだろうね。

■事業体としてのイエ社会

少し参考文献を追加しよう。
浅羽通明の「ナショナリズム」だ。

ナショナリズム書影

この本は、日本の思想について様々な名著を消化しながら、ダイジェストで一緒に考えてくれるとても読みやすい本だ。

なぜ地元の元気のあるひとたちは、自然なナショナリストなのか。それは、司馬遼太郎や本宮ひろ志(「男一匹ガキ大将」「サラリーマン金太郎」を描いている)の影響ではないか、なんて面白い論点がたくさんでてくる。

さて、そのなかに「カイシャアズナンバーワン 社会のナショナリズム 村上靖亮ほか『文明としてのイエ社会』」という章がある。

この「イエ社会」というものが、日本の会社の成り立ちとしてとてもわかりやすい理解をぼくに与えてくれる。「イエ」は「ウジ」に対応している。

ウジ、は血縁を中心とした古代の組織体制だ。天皇家や藤原家なんかの時代だね。

イエ、は象徴的に血縁を使うことはあるけど(養子縁組とか)、基本は能力主義をベースとした、日本中世の事業運営を目的とした組織体制だ。源頼朝みたいな武家からはじまっている。

イエという考えでおもしろいなと思うのは、能力主義といいながら、個人の契約に基づいてひとつの事業目的を追い求める西洋的なスタイルではないというところ。

「御家の一大事」というように、ここでは「御家」というものの存続と発展が最大の目的だ。それぞれの家臣はそれぞれ機能的な階層の一部で、自分の場所を占めることを重視いている点。

歴史的な背景はたくさんあるんだろうけど、こうなった理由は「日本列島の国土に、政権の力が及ばないまだフロンティアがたくさんあったから、開拓のために適したスタイルだった」からなんだろう。

その後武家社会は戦国大名になっていき、徳川家による幕藩体制になる。イエが藩になるんだ。フロンティアがなくなり幕藩体制になってからは、武家社会に、さしたるイノベーションはつくられていない。(たぶん)

■「脱藩者」「外様」…藩としての日本企業
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なんの話をしているのだ?という感じだね。

「日本企業ってまだ藩なんじゃない?」と言いたいのだ。

イエ社会では機能的な階層の一部で、自分の場所を占めることを重視する。

だから当然のように、日本ではどのイエに所属しているかがアイデンティティの拠り所になる。

だから古くて大きい会社だと、去ったひとを「脱藩者」として扱ったり、本流ではないところから来たひとを「外様」と言ったりする。

だから当然のようにフロンティア(かつての東国であり、近代だと人口ボーナスなどによる経済成長の余地)がなくなると、あっという間に行き詰まる。

「アイデンティティが人を殺す」の話に戻ろう。

日本においては、アイデンティティの拠り所は所属企業が担うことが多いのであれば、所属企業というアイデンティティが「殺す」のは誰なんだろう。

別に他の企業のひとを殺したりはしないよね。

それは、同じ企業に所属している人たち。各種のハラスメントや長時間労働によって追い詰められることや、もっといくと例えば「御家」のために汚職や事件に加わってしまうこと。そういう、目に見えにくい殺人に類することが、所属企業にアイデンティティを強くもつ社会では起きやすいのではないかな。

特にフロンティアを失ったように思える時には。

アイデンティティは人を殺す。
日本ではその力はコミュニティの外部ではなく内部に向かうのでは、という話でした。

おしまい。

■ここまでの話で全然でてこない人たち(僕もだ)

と言いつつもう少し書きたいことがあって、本当はこっちの方がぼくは興味があるのだ。

日本の幕藩体制の時代にあっても、武士よりも農民や商人、職人、そのほかの方がずっと人口は多かったんじゃないかな。

今だって、大企業の従業員は約1400万人に対して、中小企業に属しているのは約3400万人。
ここで言う大企業か中小企業かは上場しているかどうかではなく、中小企業基本法で定められている資本金や従業員数によって定義されているものだ。

だから、いわゆる上場している「日本企業」で働いているひとって、そこまで多くはないのだろうと思う。
新聞なんかを読んでいると上場企業や有名企業の話が多くて思わず彼らが社会の中心かのように感じてしまいがちだけど、別にそんなことはないよね。

中小企業に属している人、自分でビジネスをしているひと、非正規雇用のひと、外国籍のひと、そもそも働くことが難しいひと、働くのが向いてないひと、働くことを一旦お休みしているひとが沢山いるんだ。

「私を構成する全部の要素は、それぞれ切り離せない。真にひとつだけのアイデンティティなどなく、全てがわたしだ」

という言葉を冒頭で紹介したよね。

同じように

「日本の企業社会を構成する全部の要素は、それぞれ切り離せない。真にひとつだけのアイデンティティなどなく、全てがわたしたちだ」

と言うことができるんじゃないかな。

このエッセイのように、会社をめぐるアレコレの話の時に、いないことにされがちな人たちこそが、社会をつくっている事。

社会を構成していないひとなんていないよね、という事を強調して今回は終わりたい。

次からはもっと個人的なことを書こうと思う。

それではまた。

東藤泰宏

東藤泰宏

1981年生まれ。自身のうつ経験をもとにした会社「u2plus」を創業、その後株式会社LITALICOへ事業譲渡。その後株式会社CAMPFIREにて「GoodMorning」をつくる。現在は大手企業にて新規事業開発に関することをしている。

仕事は上手ではないが、仕事を考えるのは好き。

Reviewed by
moto

東藤さんの本年最後のコラムでは、アイデンティティという観念が根源的に持つ排他性が、歴史の文脈の中でどのような機能を果たし、ひいては現代において企業という場においてどのような作用を果たすかを解きほぐします。

人を理解する上でも自分を説明する上でも、カテゴライズすることはとても便利である一方で、時に暴力的に人を切り刻んでしまいます。人類の歴史は"アイデンティティ"が人を傷つけてきた歴史とも言えるでしょう。

今ようやく、人がありのままで、多様なペルソナを大らかに認め合える時代に差しかかっている気がしています。強さも優しさも、本当はそういうことのような気がします。

東藤さんの日々の考察は、人が優しくあるために何か大切な気付きをもたらしてくれる予感がしています。

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