「図書館の中の暴風」は、わたし(坂中茱萸)と中田幸乃さんが毎月第二金曜日と第四金曜日に交互に更新する、交換日記のような連載です。
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ぼた餅、夜船、おはぎ、北窓
これ、なんだか分かりますか。すべてぼた餅/おはぎの季節ごとの呼び名なんですって。そんなこと知ってるよー、でしたらごめんなさい。
春はぼた餅、夏は夜船、秋はおはぎで、冬は北窓。春夏はいいとして、夜船と北窓の呼び名は「つき知らず」というかけ言葉から来ています。おはぎを作るとき、米は臼で「つかず」に潰します。夜の船は暗くていつ「着いた」か分かりません。そして北窓からは「月」が見えません。だからみんな「つき知らず」。うーんすてき、と思わず唸ってしまいました。そんな十二月のある午下り。
お店で買ったぼた餅をおやつにいただきました。同居人さんが名古屋出身だからか、あんこ系のおやつに目がないのです。ぼた餅のお供には、モカシダモというお気に入りのコーヒーにフォームド・ミルクを注いだカフェオレを添えました。コーヒーの苦味とぼた餅の甘味がなんともよい出会いを醸し、幸せな気持ちです。温かい緑茶でもよかったんだけど、こういう奥行きのある可能性を探るのが好きなんです。
「おやつ」という存在は、本当は食べなくてもいいある意味「余分」な存在で、でも食べると気持ちが豊かになり、余白が生まれます。文化的な生活というのは、まさにこの余白のあることだと考えます。わたしはそんな「おやつ」のような、「みそっこ」のような余計な存在でありたいとずっと思っています。
小学生のころ、一人でシルバニアファミリーで遊びながらずっとスピッツの曲を聴いていました。そのうちのひとつが「運命の人」という曲で、「余計な事は しすぎるほどいいよ」という歌詞があります。わたしは聴いた当初から、この歌詞にずっと「分かる」という気持ちを抱いてきました。抽象的・空想的とよく評される草野さんの歌詞ですが、なぜかわたしはずっと理解できていました。この書き方が不適切なのはわかります。理解する/しないの判断基準はないのだから。でもそうとしか言いようがないのです。「分かる」としか。
そのひとつがこの歌詞でした。(ただ、これはあくまでわたし個人の受け取りであることは断っておくのですが、)きっとこの「余計なこと」というのは、「おやつ」のようなことなんだろうと思うのです。余計なことがあるから、人はふくふくと生きられるんですよね。多分。
さて幸乃さんの職場でのジュースの話。好きだなあと思わずにこにこしながら読みました。缶コーヒーばかり飲む人と本格コーヒーしか飲まない人が一緒に働いているってなんだかいいなあと思いませんか。同じ窯の飯を食べる、じゃないけど飲み物を分け与えてくれるってことはすくなくとも味方と認識されているわけだから。そうやってだんだんと馴染んでいく感じが、すごく健全だと思いました。
あっという間に師走ですね。寒さに気をつけて。健康で、よいお年でありますように。
ビール飲みながら歩いたことがない と思う グリンピースならある/坂中茱萸