「図書館の中の暴風」は、わたし(坂中茱萸)と中田幸乃さんが毎月第二金曜日と第四金曜日に交互に更新する、交換日記のような連載です。
———-
あけましておめでとうございます。年末年始、いかがお過ごしでしたか。わたしは長い休みを取ったのでゆっくりとした年末年始となりました。幸乃さんは慣れない雪国で、年末までお仕事だったようで、ほんとにお疲れさまです。
大晦日に、家族が増えました。いえ、人間の子供ではありません。正確にはオランウータンのぬいぐるみです。名前は「おさる」、通称「さるちゃん」。くたっと柔らかい触りごこちに、ほどよいサイズ感。手足が長いから肩にも乗せられるんですよ。目は優しくくりっとしていて、お腹はぽっこり。すこし尖った鼻の先から後頭部のふわふわの毛まで、もうすべてが可愛いのです。今までぬいぐるみやら愛玩雑貨に、わたしは全く興味がありませんでした(シルバニアファミリーは可愛いと思うけど購入するには至らない)。そんなわたしが射抜かれたのがこのさるちゃんでした。
今日、野暮用の帰り道、ああ、死んだらさるちゃんも一緒に埋葬してほしいなあ、とぼんやり考えたほどです。そんなことを考えながら、そういう対象ができたことに地味に驚きました。さるちゃん、我が家に来て一週間も経たずしてわたしの中ですごい存在に成り上がっている。
かつて、療養所に隔離されていたハンセン病患者の方は子供を産むことを禁じられていたため、夫婦の多くがぬいぐるみを持ち、子供のように可愛がっていたそうです。その苦しみには遠く及びませんが、小さきものを愛しく思う気持ちをしみじみ感じます。古語でいう、「かなし/愛し」。
この「かなし」という言葉をわたしが知ったのは高校時代のことです。古文で習った「伊勢物語」の中にある「筒井筒」という話が出会いでした。古文、決して得意ではなかったのですが、わりに好きだったのはこの「伊勢物語」のおかげです。かなし。いくつかの意味がありますが、今回の気持ちで現代語訳すれば、「この上なくいとしく思う」でしょうか。何といっても「この上なく」という形容詞ががいいんですよねえ(しみじみ)。謙虚でありながら心から実感する感じが滲み出ていて。。。
話が逸れました。いうまでもなくさるちゃんは生身の生き物ではありませんが、それでもわたしが手間をかけても一緒にいたいと思う一つの存在です。手間をかけても一緒にいたい人ってそんなにいないかもしれませんね。自分も含めて。幸乃さんが前回の書簡で書いていたことを思い出します。
ひとり暮らしの生活を思い返すと、ずるずると時間を持て余していたけれど、余白があったようには思えない。余白というのは、じっと待っていて手に入るものではなくて、思考したり、手を動かして試してみたりするための時間や体力が必要なのかもしれません。
自分に手間をかけることはわたしも面倒くさくて、億劫だなあとよく手抜きをします。でもいろんなひとのおかげでギリギリのふちをどうにか歩いています。それでいいか、とも思いつつ今年はなるべく好きな川辺を歩いていくぞ。たくさん本を買ったり読んだりして。
また見ることもない山が遠ざかる /種田山頭火(『草木塔』より)