「図書館の中の暴風」は、わたし(坂中茱萸)と中田幸乃さんが毎月第二金曜日と第四金曜日に交互に更新する、交換日記のような連載です。
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幸乃さんこんにちは。今回は料理の話を書きます。18歳で実家を離れて以来ずっと自炊をしているので、自炊歴は10年以上になります。自炊をする理由としては外食はお金がかかるため、というのがあるけれどそもそもわたしは料理をするのが好きです(学生時代、よく一緒に夜ご飯を作って食べましたね)。日常の中でのちょっとした創造行為として料理をしている、とも思っています。何かを生み出す行為というのは人間の根幹的なものを刺激するのかもしれません。
しかしだからといって、いくら料理が好きでも、いやだからこそ料理に疲れる、ということは日々感じることでもあります。とらわれているという感じでしょうか。うちでは朝ごはんのメニューはトースト(またはグラノラ)とコーヒーと決まっているので、悩まされるのは昼と夜の献立と調理です。お弁当と夜ご飯。二人暮らしなのでたった二人分ですが、これが毎日となるとうーん、と考えてしまうこともしばしばです。
書店に行けば多くの料理本であふれています。売れ筋として置かれている本には「時短」、「作り置き」、「~~分でできる」、「レンジで」……、こういった文字が目立ちます。つまり今の料理本に求められているのは忙しい現代の生活にマッチしたものなんだなあと分かります。わたしも例に漏れず、ヒントを求めてそういった本をぱらぱらとめくってよい本があれば購入しようと探すのですが、さいきんは見れば見るほど情報に圧倒されてしまいます。結局、料理のやり方に正解はないんだなあと思ってしまうのです。たとえ一汁一菜が楽であると書かれてあっても、個々の生活に合うかどうかは分からない。だから料理本のルールに沿って動くよりは、まさに自分のさじ加減で試行錯誤するのがいいのだと考えています。そのひとつとして一から十まで手作りしなければならない、という思考から自分自身を解放することにしています。たまにはドミノ・ピザでもいいのです。
しかし、不思議なことにいくら疲れていても、わたしはいざ台所に立って食材と向き合い始めると心が落ち着いてきます。料理に病んでいる、とも言えるかもしれません。食材と向き合うことは自分とのコミュニケーションの時間です。料理に限らず、なんでもいいのですが、そういう「深い場所へもぐる」ような時間を持つことは、人間の生活にとって必要不可欠なのではないか、と思うのです。
前回の幸乃さんの共感と驚異の話。驚異を探すことは、自分の体調によっては引っ越し並みに体力が要ることかもしれません。だからつい共感のほうへとすり寄ってしまうのですが。
共感も驚異も、自分の感性の引き金次第で動くものなんだと思います。わたしもそれを見つけたいし、自分の言葉でそれを表現できるようになりたいものです。むむむ。
「レターパックで現金送れ」はすべて詐欺 おでんは心なので大丈夫です/坂中茱萸