シド・ドレイクの再生 <後編> (文 中島弘貴 → 絵 矢野ミチル)

第8期(2013年4月-5月)

シドとニックの二人は樹で囲まれた山の中の野原にやって来た。様々な草花の混在するその場所では、蝶や蜂やハナムグリや天道虫などが飛び交っていた。落ち葉の散らばる地面のところどころにはきのこが生え、蟻やダンゴムシや蜘蛛、その他多くの虫たちが行き交っている。太陽は少し傾いていたが、日光はわずかに黄みを帯びていたもののほとんど真っ白で、眩しすぎるほどだった。
彼らはその野原の片隅の、大きな榎(えのき)の陰になる場所まで来た。蚊が活動を始めていたので、ニックは蚊よけの香を焚いた。野原の全景とその奥にある山並みが見える方を向いて、シドとニックは地べたに腰かけた。二人とも胡坐(あぐら)をかき、シドはケースから出したアコースティックギターを抱えていた。
シドがギターを弾き始めると、美しい音楽が広い空間に響きわたった。すると、太陽の光が密度を増し、寄せては返す波へゆっくりと変化していく。夥(おびただ)しい微細な光の粒によって形づくられたその波は砕け、弾け、たくさんの飛沫(しぶき)になっては再び集まりを繰り返す。
シドが指を繊細かつ精確に動かしてアルペジオを奏でる。すると、光の波を受けた植物の茎と葉がにょきにょきと、むくむくと伸び出す。そして、蕾(つぼみ)を付けたものは花をほころばせ、既に咲いていたものはさらに生き生きと花びらを広げていく。
シドはアルペジオを保ちながら、弦を押さえる指を滑らせたり弾(はじ)いたりして、浮遊感にあふれるメロディを展開する。すると、満開となった花畑に向かって、あらゆる方向から蝶々が羽ばたきながらやってくる。小さなものも大きなものも中くらいのものもいる、それぞれに異なる模様と色彩をもった蝶たちだ。
さらに演奏が続けられると、その後は生命の祝祭とでも形容すべき状態になった。煌めき輝く光の波に合わせ、花々はゆったりと揺れながら金や銀や銅の花粉を放ち、蝶たちは優雅に舞い、羽根の生えた小人の姿をした風や雲の精霊たちが現れ、無邪気にも華麗な踊りを繰り広げる。集まってきた鳥たちは空を飛びながら、あるいは樹上にとまりながら、シドの演奏に合わせて妙なる歌声を響かせる。
シドは放浪とニックとの暮らしを経て、急成長を遂げていたのだ。彼の全身全霊はもはや天上にあり、至高の音楽を絶えることなく生み出し続けていた。それは内なる世界のみならず、音が届く範囲の外なる世界をも美で満たす。その演奏は間違いなく、彼がこれまでに行ったなかで最高のものだった。

「シド!演奏をやめるんだ!」
ニックの飛び抜けて大きな声がシドの至福の状態を破った。
「ニックさん、どうして…」
何とか意識を取り戻して演奏をやめたが、どんよりと虚ろな眼をしたシドが言った。
「やっと気が付いたか。何十回も呼びかけたんだぞ」
ニックは手にした水筒を傾け、冷水をシドの頭に浴びせかけた。
「さあ、しっかりするんだ」
毅然としつつも優しさのこもった声でニックが言うと、シドの眼に生気をもつ光がわずかながら戻ってきた。
「立てるか?」
「うん、何とか…」
「じゃあ、そのギターを置いて少し歩こう」
そう言ったニックが野原の中心へ向かって歩き始めたので、シドはふらつきながら後を追った。
「ほら。シド、見えるか」
ニックが地面を見ながら口を開いた。そこには散らばった白や黄や水色や桃色などをした花びらの数々と、ぴくぴくと動いている瀕死の蝶たちの姿があった。
「これは…。どうしてこんなことになったんだろう?」
強い目眩を覚えながら、シドが言った。
「おれも詳しくは分からない。だけど、この事態を招いたのは、間違いなくお前の音楽なんだ」
「…ぼくの演奏はだめだったんだね」
シドが辺りを見わたすと、そこら中にそのような惨状が広がっていた。よろめくように飛ぶ蝶や静かに死に絶えている蝶も、あちこちに見られた。
「お前の演奏は、音楽をよく知らないおれからしても美しかったよ。いや、美しすぎたと言ってもいい」
「じゃあ、どうして…」
「多分、その美しさが都合のいいものだったからじゃないかな。お前が…いや、人間がと言ってもいいが、美しいと思っていることが他のものにとって良いとは限らない。お前の良かれと思った演奏は、恐らく生態系を狂わせるものだったんだ」
「ぼくがギターを弾くと、たくさんの命が奪われる…。ぼくは、ぼくはどうすれば…」
シドが涙ぐみながら言った。
「お前は力を持っている。そして、それは使いようによって物事を良くも悪くもする。その正しい使い道を覚えるためには、あらゆるものをもっとよく知らないといけないだろうな」
「ニックさん、ぼくは…ぼくはもうギターを弾いちゃいけないのかな?ぼくは音楽の力の使い方を間違っ…間違ってきたんだ。これまでもきっと、みんなを幸せに…幸せにできると思っていたけど、本当はみんなを中毒にしてきただけなんだ。ぼくはいい気になって、知らないうちに暴力を…暴力をふるっていたんだ…」
ぼろぼろと涙を流し、しゃくり上げたり鼻をすすったりしながらシドが言った。
「シド、終わったことは仕方がない。少なくとも、お前は気づくことができたんだ。あとはその事実を受け入れ、その事実を忘れずに、これからどうするか決めればいい」
「うん…、ごめんなさい」
「おれに謝っても仕方がないよ。ほら、シド。顔を上げてこの世界を見るんだ。美しいだけじゃない、時に残酷だがもっとすばらしいこの世界のこのままを。大きなものから小さなものまで、一つ一つを丁寧に見るんだ」
そうして、二人は夕焼けの深まる空の下で帰路についた。

その日以来、シドは変わった。農作業においてもそれ以外の生活においても、一つ一つの言動を確かめるように、慈しむようにして行うようになったのである。しかし、これまでの人生で培ってきた習慣は非常に根強く、時おりそれを怠ってしまう。そうなったときも、彼は自分の演奏が多くの死を招いたことを決して忘れなかったので、すぐさま全ての言動に慈しみを行きわたらせるよう持ち直した。それは、人生そのものを祈りに変えようとすることだったと言えるだろう。全てを慈しむという新しい習慣を確立し、しかもそれを当然にせず、いつも新鮮に行う…彼が目指したのは、そのような境地だった。一方のニックはシドの様子を見守り、必要があれば言葉や行動によって彼を援助した。また、シドに倣(なら)い、これまで以上に自分自身の全ての言動に気を行きわたらせるのだった。
シドは思い悩んだ末に、ギターを弾き続けることを決めた。初めは、また何かを殺してしまうのではないか、損なってしまうのではないかと心配で、びくびくしながら弾いていた。しかし、それでは良い演奏ができるはずがない。なので、やがて彼は日々の暮らしと同じく、祈るように弾くことを心がけるようになった。音楽、自分自身、周りの事物、それらの全てを活かすように奏でることが彼の命題だった。シドは三カ月間、自由な時間があれば部屋の中でひたすらギターを弾いた。そして、新しい弾き方に多少の自信がつくと、ギターをかついで裏山へ出かけるようになった。

多くの生命を死に追いやった日から約一年が経ったある日、シドはニックを誘った。農作業の後、家の裏山にあるお気に入りの場所へ行こうというのだ。
「前にも話したけど、近くに小川の流れる、とてもいいところなんだ。そこでギターを弾くから、ニックさんも一緒に来てくれない?」
と、シド。
「もちろんだよ。是非行きたいな」
ニックは即答した。

その日の農作業を終えた二人は、山奥のあるところまでやって来た。そこは針葉樹と落葉樹が混じる、緑の深い地帯にあった。小川がすぐそばにあり、せせらぎの音に混じって鳥の声があちこちから響いてくる。薄い雲が少し見える程度で、空はよく晴れていた。
蚊が活動を始めていたので、ニックは蚊よけの香を焚いた。それから、二人は苔むしたとても大きな岩の上の、あまり苔の生えていない平らな場所を選んで別々に座った。そして、シドはケースからギターを取り出した。
シドがギターを弾き始めた。呼吸するように、生活するように、何よりも祈るように。彼は周りの景色を全身全霊で感じながら、優しい表情をし、美しい動作で指と爪を使って弦を弾(はじ)いていく。ニックはその豊かな音にすっかり聴き惚れていた。そして、シドの奏でる音楽が彼の感覚を、思考を清めていくのだった。
その演奏のなかで、シドとニックは数え切れないほどの発見や再発見と出会った。頭上の多くの部分を占める、一枚一枚の緑色が異なる木の葉たちは集まって広がって重なっており、光と影を作ったり風にゆられたりしながら変化に富んだ様子をしている。そのそれぞれは形も全て異なり、丸い穴が空いたり、ギザギザに切り取られたりした虫食いが目立つものもあり、実際に虫が止まっているものや蜘蛛の巣が張られているものもある。視点を変えると、樹々の間に見える大空と雲の様子も、下方に見える川の流れも、一瞬たりとも同じではない。スローモーションになったかカメラのシャッターを切ったかのように、それらの瞬間瞬間が目に、心に焼きつく。辺りの空気に意識をやると、風の描く透明な、流麗で複雑な模様がゆっくりと、かすかに浮かびあがって見える。時おり、そこらを飛んでいく小さな羽虫や蜂や蝿の細やかな脈が走る翅(はね)、それが一掻きごとに空気を捉える優美とも言える運動の様子がはっきりと確認できる。また、そのような景色のそこら中に光の輝きと煌めきと温かさ、それの含む淡くも鮮烈なありとあらゆる色、それの持つ丸みを帯びた多角形の連なりなどが見え、感じられる。
樹々や腐葉土の発散する芳しい香りで満ちた空間に、それらの全てがあった。そして、以上の記述を遥かに凌駕する、夥しい生命の存在とその連環が感じられた。この瞬間にも、目に見えるものもそうでないものも含んだ多くの命が鼓動し、呼吸し、活動している。死に、分解され、また生まれている。
(この山は、いや、この世界は何てすばらしいんだろう)
二人は同じようにそう思った。シドは演奏をしながら、ニックはその音を聴きながら、感動に震えていた。心身が帯電した水で満ち溢れ、それが外側へ放出されているような、ぞくぞくとする快さがあった。

そうして、永遠のような、同時に一瞬でもあるような時間が過ぎた。辺りの闇が深まり始めた頃に演奏が終わると、昂揚を隠しきれない様子のニックがシドに話しかけた。
「シド、ものすごく良かったよ。音楽と山が互いを高め合っているような、そんな演奏だったと思う」
「ニックさん、どうもありがとう。ぼくも同じように感じていたからうれしいよ」
「何というか、とても透明な時間と空間だった。普段は感じ取れない本当にたくさんのものが、景色と自分自身の奥の方から湧きあがってきて広がって、その豊かさというか限りのなさというか、そんなものをこれまでになく実感できた」
「うん、ぼくもそんな感覚があった。山と音楽と自分自身、その全部の底知れない豊かさが一斉に押し寄せてくるような」
「シド、おめでとう。お前はすごいよ」
「うん、本当にどうもありがとう」
そのように話しながら、こみあげるものがあって、彼らは二人とも泣きそうになった。しかし、涙を流さずに微笑んでいた。
そして、シドとニックはその体験の濃厚な余韻を覚えながら帰路についた。途中の広く平坦な道に差しかかると、ニックが口を開いた。
「おれの仕事は農業だ。農作業と農作物を最も愛してるから、おれにとっても世の中にとっても、それが一番いいわけだ」
彼はそこでほんの少し間を置き、さらに話を続けた。
「だけど、お前は違う。お前の仕事はやっぱり音楽なんだと思うよ」
「うん。ぼくもそう思う。音楽を一番愛しているから、ぼくにとっても世の中にとっても、それが一番いいんだと思う」

失踪してから約一年半の期間を経て、シドは音楽業界に戻った。彼は再び世界中を飛び回るようになったが、農業の繁忙期と年に数回は父のようであり、親友でもあるニックの家で過ごした。
シドはエレクトリックギターをアコースティックギターに持ち替えて、ライブやレコーディングを行うようになった。今や、彼の音楽は断絶した恍惚境への旅行ではなく、未知ではあるが現実と地続きになった場所への散歩とでも言うべきものになっていた。とは言っても、その散歩の行程は前者よりも圧倒的に長い場合が多かったが。
そのように、演奏の派手さが大いに減じたので、多くのファンがもっと分かりやすい音楽を求め、シドの元を離れていった。しかし、それよりも少数ではあるが新しいファンがつき、何よりも彼の音楽を本当に愛する人が増えたのである。音楽各紙によるシドの評価も似たような様相を呈した。半数以上が「シドは輝きを失った」「シドの才能は枯れ果てた」などとこき下ろし、「シドは豊かな成長を遂げた」「シドの才能がようやく開花した」などと称賛するものは少数だった。しかし、透んだ洞察力を持つある批評家はこのように断言した。「進化したシド・ドレイクの音楽は、都市においても田舎においても同等の重要性を持つ。加えて、過去現在未来のいずれにおいても鮮やかな魅力を失わない、類稀(たぐいまれ)なる普遍性を備えているのである」

あるとき、ニックは彼の住む家からさほど遠くない都会で行われるシドの単独ライブを観に行った。
そのときのシドの演奏はすばらしかった。そのなかで、ニックは自分自身が住み慣れた山里の自然の真っ只中にいることを体験した。しかも、それがかつてなく精緻に、そして生々しく実感されたのだ。
「この丸っこい花はシロツメクサで、こっちの小さくて青いのはオオイヌノフグリ。それから、そこにある赤紫の花はベニカタバミだよね。みんな可愛いな。だけど、この黄色い花の名前が分からないんだ。ニックさん、これは何て言うの?」
彼はその体験のなかで、シドからそのように語りかけられた。会場にいる他の多くの観客たちも、ニックと同じように、自分の愛するそれぞれの景色の真っ只中にいた。よく見知ったものであり、同時に未知のものでもある景色の真っ只中に。

それからもシドは幸せに暮らした、と単純には言えない。その後、シドは人生最大の恋愛の歓喜と苦悩に出会い、音楽活動においても再びエレクトリックギターを用いるようになる大きな転機を迎える。人生も芸術も、考えもつかないほど多くのものごとで成り立っており、決して単純ではないのだ。シドのそれらの経験をここで語る余裕はない。ともすれば、別の機会に語ることがあるかも知れないが、今後もずっと語ることはないかも知れない。いずれにしても、シド・ドレイクはこれからも確かに生き続けるだろう。

中島弘貴 → 絵 矢野ミチル