シド・ドレイクの再生 <前編> (絵 矢野ミチル → 文 中島弘貴)

第8期(2013年4月-5月)

シド・ドレイクは空前絶後の天才ギタリストだった。フィードバックを多用した、彼のエレクトリックギターによる演奏は大変なものだった。時には滝を思わせるノイズの飛沫(しぶき)を撒き散らし、また時には春の陽ざしを思わせる輝くフレーズを降り注がせ、別のある時には宇宙空間へ誘(いざな)うような倍音に満ちた音の塊を放出する。彼はたった独りでステージに立ち、それを生み出した。シドのギターの音を浴びた者は、その度に異なる景色や物語を体験する。それは他では決して得られない恍惚境への旅行であり、一度体験すると、もはやそれなしでは生きていけないとすら思わせる。演奏中に観客が失神することはざらにあったし、シド自身もギターを弾きながら異世界へ迷いこみ、意識を失ったままで何時間も演奏を続けることが度々あった。

孤児(みなしご)で人付き合いが苦手だったシドは、十歳になる前から明けても暮れてもギターだけに打ち込んできた。かつてはそれが幸せだったし、大袈裟ではなくギターが彼の人生そのものだった。家族も友人もなく、恋人ができてもすぐに別れ、ギターを演奏して世界中を回る慌ただしい生活。彼は二十五歳になったばかりだったが、十六の頃からそんな暮らしをしていたので、随分と長く生きてきたように実感していた。しかし、その実態は虚しいものだった!
(ぼくには人生と言えるようなものがあったんだろうか?名声もお金も有り余るほどあるけど、親しい人や場所もなければ、特別な思い出もほとんどない。あるのはギターを弾いた日々と、それに関わる体験ばかりだ。確かに、そこにはすばらしいものもあった。だけど、ぼくにあったのはそれだけ、ただそれだけだったんだ!)
世界中を回りながら、ただっ広いホテルの一室で、シドはそのようなことを幾度となく考えた。そして、その頻度は時を経るにつれてますます高まり、まとわりついた寂しさや虚無感が際限なく膨らんでいくのだった。
(この部屋の窓からは、他の建物の窓から漏れる灯かりが何千何万と見える。そして、その一つ一つの向こう側には人生がある。同じように、ステージから見える何千何万の観客の一人一人にも人生がある。だけど、ぼくにだけそれがない…)

シドはそれまでに得た全てを投げ出し、放浪の旅に出た。荷物は最小限の衣類とお金だけにとどめ、ギターすら持たなかった。食べ物と寝床は行き当たりばったりで得ることにした。彼は誰にも見つからぬよう帽子を目深に被り、ぶかぶかのコートを着て大都会を歩いていた。シドは自分の本当の人生を求めていた。名声やお金や物ではなく、彼の心にしっかりと根付く何かが欲しかったのだ。
シドは人々でごった返した巨大な建築物群の間を通り抜け、びっしりと家の詰まった住宅街を通り過ぎた。一週間ほど歩き続けると、周りの景色は様子がかなり違ってきた。家は疎らになり、田畑が目につくようになり、精妙な緑色や青色や茶色をあらわす山並みが近づいてきた。何よりもうれしかったのは、空がこんなにも広いと、かつてなく実感できたことだった。それまでにも、街から街への移動中や野外音楽祭の会場などで広い空を見たことはあったが、そのときとは気分が全く違っていた。
(ぼくは自由だ!)
シドは心の中で、何度もそう叫んだ。歩いていると、その広い空が次第に暮れていく。彼は旅に出て以来、夕焼けが一日ごとに全く異なるということを発見していた。輝きも色合いもそれらの変遷も、何と多様であることか!ある日、シドは大きな河に架けられた長い鉄橋の上で夕暮れをむかえた。燃えるような橙、黄金、紅の混じった夕焼けが空と雲とそこら中の景色を染めあげ、ぽっかりと丸い大きな夕陽が河の向こうにある山へ沈んでいく。太陽が見えなくなると、それの沈んだ辺りから空へ向かって光が放射され、夕焼けの色はますます鮮やかになり、ますます混沌として美しさを増す。穏やかな波でさやめく水面がそれを反射し、てらてらと、ちらちらと照り輝いている。シドは湧き上がる感動でいっぱいになり、涙を流した。空の移ろいを眺めながら立ち尽くしていた彼は、辺りが薄暗くなってから再び歩き始めた。蝙蝠や鳥の黒い影が、雲の多くなった空を飛び回っていた。

旅立ってから三週間というもの、人との交流はほとんどなかった。交わした言葉といえば、道を尋ねた人との会話や、ホテルや旅館の受付との会話といった事務的なものばかり。なので、孤独には慣れていたシドも、さすがに人恋しくなってきた。また、一週間ほど前から、彼はギターが無性に弾きたくなっていた。しかし、そこは山里だった。人の住む家は少なく、ましてや楽器屋などあるはずがない。そんな昼下がりに、突如として強風が巻き起こり、雲行きが怪しくなってきた。辺りが薄暮と見紛うほどの暗さになると、大粒の雨がぼつぼつと降り始め、すぐに視界を覆い尽くすほどのざあざあ降りに変わった。雨は横殴りで、傘を差しても防ぐことがほとんどできない。堪りかねたシドは100mほど先に霞んで見える、田畑で囲まれた民家へ向かって駈け出した。
戸を叩くと、そこに住む五十がらみの男が姿を現した。すっかり日に焼けた厳(いか)つい風貌をしているが、その物腰は穏やかだった。シドが事情を話すと、彼は快く家の中へ招き入れてくれた。その男はニック・バレットという名前だった。随分前に妻と別れ、たった独りで暮らしているという。激しい雨音の響く室内で、牛蒡と人参と大根の入った味噌汁や焼き魚のある温かい夕食と、全身に染みとおるような美味い純米酒がふるまわれた。その席でニックが切り出した。
「急がない旅なら、明日から住みこみで農作業を手伝ってくれないか?ちょうど人手が欲しいと思っていたんだ。ささやかだが、お礼も払うよ」
彼の人柄とその暮らしぶりがすっかり気に入っていたシドは、その申し出を快諾した。
「その仕事をするのは初めてなので、始めは上手くいかないこともあるかも知れません。それでも良ければ、是非お願いします」
こうして、シドはニックに手伝いとして雇われることになった。

時には歯痒いことや苦しいこともあったが、日々の農作業は愉しい経験だった。天候に左右されながら空の下でする仕事を通じ、シドは自分の世界観が次々に変わることを実感していた。ニックから優しく、あるいは厳しく教えられたり注意されたりすることもまた、その大きな助けとなった。一対一で誰かから何かを一から十まで教わることなど、これまでになかったのだ。シドはしっかりと筋道の通った彼の話を真剣に聞き、順調に仕事を覚えるとともに、自分の殻を少しずつ破っていった。
ニックと過ごす生活もまた、シドにとって得難いものだった。寝床は別だったが、彼と一緒に食べ、話し、多くの血と体温の通った時間を共にした。また、ニックは植物のことをよく知っていた。彼は農作業の前後やその合い間に、あれこれの草花や樹の名前、加えてそれらの生態などをシドに教えた。

「この細長い花はヘラオオバコ。この桃色の混じった白い花はハルジオン、あの黄色いのはオニタビラコ。どうだシド、みんな可愛いだろう」
「全部雑草と呼ばれる種類だけど、それぞれが全く違う。おれはみんなひっくるめて雑草と呼ぶなんて、こいつらに失礼だと思うよ」
シドはニックのそんな話を聞くのが好きだった。それを通じ、自分が都市を中心に音楽活動をしてきて、いかに多くの偏見を持ち、心の視野がいかに狭かったかを知ることができた。
(世界はこんなにもすばらしいのに、ぼくは何も知らなかった。ああ、これが本当に生きるということなのかも知れない)
一日に何度となく、シドはそのように思うのだった。

ニックと暮らすようになってから一月ほどが経った。彼に全幅の信頼を寄せるようになったシドは、自分の過去を打ち明けた。
「音楽のことはよく知らないから、お前のことも全く知らなかったよ」
その告白を聞いて、ニックは言った。
「ニックさん、今まで隠していてごめんなさい」
と、シド。
「何を謝ることがある?過去がどうだろうと、おれはここにいるお前自身を少しは知っている。それで充分じゃないか」
「ああ、そうですね。どうもありがとうございます」
「いやいや、お礼を言われることなんて何もしてないよ。あ、そういえば、家を出た息子が置いていったギターが押入れにあったな」
「本当ですか?」
シドはニックに頼み、そのアコースティックギターを貸してもらうことにした。それに張られていた弦はすっかり錆ついていたが、ギターケースの中に新しい弦が一揃い入っていたので、すぐに張り替えることができた。そして、シドは早速、彼にあてがわれている部屋に篭ってギターを弾き始めた。約二カ月ぶりの演奏だったので指が多少動きづらくなっていたが、ギターを弾き始めた頃を思い出させる、心身の底から豊かに湧きでる新鮮な悦びがあった。
(改めて聴くと、何て良い音色だろう。それに、ギターを弾くのは何てしっくりと心地が良いんだろう)

シドは農作業と食事の時間、それにニックと話し込むとき以外はギターの演奏に没頭するようになった。ある日、ニックはそのようにして閉じ篭もりがちになったシドを誘った。農作業の後、家の裏山にある広い野原へ行こうと言うのだ。
「ギターを持って行ってもいい?日頃のお礼になるかは分からないけど、ニックさんにぼくの演奏を聴いてもらいたいんだ。そういえば、まだきちんと聴いてもらったことがなかったから」
少し前に、ニックから敬語の廃止を提案されていたシドが言った。そのように控えめに言ったものの、彼には大きな自信があった。音楽をよく知らないニックも、シドの演奏を聴けば何か感じるものがあるだろう、そしてそれは十分なお礼になるだろう、と。
「もちろん。シドがそう言うのなら、じっくりと聴かせてもらおうかな」
そして、その後に起こった出来事がシドに大きな転機をもたらすことになる。しかし、そのときの二人はそれを知る由もなかった。

(次回に続く)

矢野ミチル  →  文 中島弘貴