釣りをする猫

第9期(2013年6月-7月)

釣りをする 
「ただいま」

 そして私は、買ってきた、マカロニサラダをテーブルの上に。

 続いてポケットの中の釣り銭、その硬貨数枚をひとつかみに取り出して、押さえつけるように「がちゃり」 と据えた。

 テーブルの上に置かれた硬貨数枚は、「ぽん」と押された猫の足跡のように並び、それはなんだか今日一日を、「終わったねぇ」と承認した、肉球による捺し印みたいで、私はちょっと安心する。

 それはつまり、まだ一度も別れたことのない、私の中の猫のこと。

 それはつまり、一度しか別れられない、私の中の猫のこと。

 今日一日が、まるで、やんだばかりの雨を含む砂地のよう。それでここには、猫の足跡。

 帰りがけに買ってきた、マカロニサラダを前にして、私の中の猫は「はやくフォークを用意しようよ」って言う。

 でも、「コーヒーをいれたいんだけど」って、私は思う。

「コーヒー? いやいや、わかってないね。今必要なのは、この穴の開いたマカロニに、爪みたいなフォークを突き刺すことだろう」

 私の中の猫は、テーブルの上を見つめながらそう言ってる。

 それで私はコーヒーと、着替えのことも後に回して、マカロニを前に席につき、猫と一緒にフォークを持った。

 私の中の猫は、この小さな部屋に戻ってきたとき、たとえば、自分が押し退けた空気の分量について考えていたりする。

 月から窓を通ってやって来る、淡い光を風のように受けるとき、ヒゲをすこし振ってみせたりする。

 それに舌を出す。爪をしまう。

 左目でぎこちないウィンクをし、鏡へ私を映すときには、ポケットへ手を入れて斜に構えたポーズを取る。

 そうやって、私の中にいることを、私に示す。

 さっきは「ぽん」と一日を承認する、捺し印のような足跡を、テーブルの上に残してみせた。

 今、その判の持ち主は、夕食に買ってきたマカロニサラダを、私と一緒にフォークの先で転がしながら、具合をみているところ。

 猫。猫。私の、中の猫。

 それが、私を見上げる。

 どこから見てもまんまるな、猫の瞳に映りながら、「でも、あれだよ」と私はつぶやく。

 わけもなく胸がいっぱいだし、すぐにはマカロニを食べられそうになくって、だから「コーヒーも必要だと思うんだ」って、言ってみる。

 私の中の猫は同意する。

「そうかもね。こいつは遊びじゃないんだし」

「そりゃあ、そうだよ」と私は思う。こいつをきちんと食べておかないと、きっと明日が続かない。だから───

「だからやっぱり、コーヒーを淹れよう」

 フォークを置いて、私は席を立った。

 ちいさなキッチンへ歩いていくと、私の中の猫はついてきて、

「そいつはブラックコーヒーかい?」

 と、見上げるように聞いてくる。

「いや、ミルクを入れようと思うね」

 と、ポットを火にかけてから、私は返す。

「いやいや美しくないね。夜みたいな色のブラックコーヒーがいいよ」

 私の中の猫は、そう言ってしっぽを振るから、そのせいで私は、続けて三度のくしゃみをした。

 ひゅーっ、とお湯が沸き、ぶぶぶっ、と蒸気が吹きこぼれ、私はちょっと身を引いて、手だけ伸ばして火を止めた。

 猫はひげを守るようにして、私の視界から退散する。

 私は、粗めに挽いたコーヒー豆をしっとり蒸らし、熱湯が少し温度を下げるのを待ってから、三度に分けてお湯を注ぎ、夜より見通しの利かない色のコーヒーを淹れた。

「さて、どうするね」

 一口コーヒーを飲んだところで、私の中の猫がひょいっと出て、そう聞いてきた。

「寝る間はないね」

 と、私は時計を見て考える。夜が明ける前に、もう家を出なくちゃいけないし、夢見ることには、少々遅いよ、と。

「やって来るのは、夜の名残りかね? それとも、朝の始まりかね?」

 私は返事をしなかった。

 頭の中で、ゴミをまとめて出しておいたほうがいいな、なんて考えているところだったし、朝か夜かなんてこと、深く考えようとは思わなかったし。

「ねえ、起きるほうの手前かね? それとも眠りの、終いかね?」

 私は返事もしないまま、大きな袋にゴミをまとめ始めた。

 きれいに暮らすことは、とても難しく、暮らすことできれいになっていくのは、もっと難しく、ゴミは思っていたよりもずっと多くなり、袋は、サンタクロースが背負っている袋のように膨らんでいった。

 私はそいつの口をぎゅっと縛り、部屋の扉を押し開けて、まだ暗く冷たい外の空気の中へと出ていった。

 アパートの階段を小走りに駆け降りて、通りへ出ると、星を縫いつけた夜空が、天幕のように大きくあった。

 明けの気配は裾や端からで、黒々とした山の稜線をあたりには、わずかばかりの青みが混じり始めていたけれど、町のほうは、まだ静かで、色もないままだ。

 大きなゴミ袋をかついだ私が、ゴミの捨て場まで歩いて行く途中、街灯が一本、ぽつんと立っていて、私の影法師は、その下でだけ濃くなった。

 私はゴミを出し、一息つきながら、東のほうの空を見た。

 順番待ちの気配を、舞台の裏で密めくような夜空だった。

 空の低いところに、細い釣り針のような形をした月が見え、ひときわ明るい星もひとつ、近くにあって、私は腰に手を当てて、しばらくそれに見入ってしまった。

 あの釣り針のような月の細さにみとれることを、なぜだか、どうしても、やめられなかった。

「おいおい、僕を部屋に忘れてったんじゃない?」

 声に気づくと、一匹の猫が、傍の塀の上にいて、私のほうを見ていた。

「いや」

 私はまた、東のほうの空を見た。

 どうしても、あの、見事に尖ったガラス細工のような月から、目を離すことができなくなっていた。

 それで、つい声に出して、「釣れそうだ」と言った。

「ほう。何を釣るんだい?」

 横目で見ると、楽しそうな素振りの猫が、細い電線を釣り糸に張った竿を、弓なりにして構えていた。

「いや、何が釣れるってこともないだろうし、たとえの話だよ」と私は言ったけれど、猫は事もなしにさっと黒い竿を振った。

 すると、たわんだ電線の先が、見事に東の空へつながっていき、途中で星をひとつ括りつけ、最後にあの釣り針のような細い月へとつながれた。

 途中で結ばれた星は、浮のように瞬いて揺れている。

「朝を釣り上げようっていうわけさ」

 猫は、くいっと月の針を引き上げた。「おん」っという音を立てて、稜線のむこうに控える色味が動いたようにみえた。

 平均台の上を、一方通行で進むときのような緊張感を持って、何かの仕組みが、戻らない気配を強めたのだ。

 私はちょっと慌てて、

「ほら、もういかなくちゃだよ。始発に乗らなきゃいけないんだから」

 と猫に声をかけ、部屋へ戻るようにうながした。

 猫はつまらなそうにしながら、釣り針を引くのをあきらめて、竿を置いた。

 東の空を振り返って見ると、月の釣り針と大きな星の浮きが、最初に見つけたところよりも高い位置にあって、いくぶん青味を増した夜空の手前には、たわんだ電線を結ぶ電柱が、シルエットになって立っていた。

 朝が、いつもよりちょっと早く、近くなっていた。

「さあ、準備はできた」

 出かける準備を終えて、私は部屋の中を見回した。

 きちんとゴミは捨てたし、食器も洗ってある。きれいな部屋。なにもいない。もし、誰も戻ってこなかったとしても、住人がいったい何時までいたのか、特定するのに困難なくらいのきれいな部屋だ。

 それから鍵を持って、新しい靴を履く。

 旅行かばんを手にして、扉を押し開く。

 私はそこで、じぶんの小さな部屋を振り返る。

 私の中の猫が、部屋に取り残されてないかと、ちょっと不安に思ったのだ。

 誰もいない部屋は、私がさっきまでそこにいたことを、もう忘れていて、私や旅行かばんや厚手のコートや使い古した手帳がなくなった分の空気も、ぴったりと埋め合わされて、もうちゃんとしているのを見られるから、だから、

 ……だから私の中の猫は、今はしゃべらないけど、今日もまだ一緒に出かけていくみたいだなって、そう思う。

 それは、まだ一度も別れたことのない、私の中の猫の話。

 これは、きっと一度しか別れられない、私の中の猫の話。

 新しい日も、どこかへ逃げたりしないで、どうかよろしく。

 もちろん、返事はないけれど、私の中にはひとつ、ロウソクの炎のような熱が、ぽっと灯っているのがわかる。だから私はひとり口に出して言う。

「じゃあ、行こうか」

 すると明け方の空の下を歩き出す私の中で、ちいさい炎のようなぬくもりが、猫のしっぽのように、揺れて返した。

 

 ◇ 

 アパートメントを出る日がやってきました。いくつか、ここで過ごしたから生まれた記事を書きました。ここへ来なければ、知ることのなかった縁にも出会いました。今日で僕は部屋を空け、部屋には次の人がやってきます。新しい始まり。
 でも、ひとつだけ最後に。ここでの接点が、このアパートメントの中だけで途切れてしまうものでありませんように。引越しの挨拶を記した葉書にかえて、同じように書き同じように続く場所へのリンクを残していきます。またお目にかかりましょう。おやすみなさい。