森の人「前」

第11期(2013年10月-11月)

あらゆる種類の緑をしみ込ませたような森があった
豊かな地表を覆う和毛のような苔は
幾星霜も年輪を重ねてきた木々の幹を優しく包み込んでいた
常に霧がたれ込めていたため
その色彩の深さと豊かさとをつぶさに知ることは容易ではなかったが
1年の中で限られた時にだけ
緑の天井のわずかな隙間から漏れ出した日の光が森を照らした
幾度も濾過された柔らかな光と森自身が育んできた柔らかさとが
出会い膨らみを増し
地表で一つになるその瞬間はまさに僥倖と言えた

今では奇跡とも言える 森が姿を現すその瞬間も
昔は珍しいことではなかった

人々は森の一部を切り開き
ささやかな集落を作って日々を営んでいた

森より後に生まれ
森とともに生き
そして森よりも早く死んでいく
何百年と繰り返されてきたことだったが
それは終わりに近づいていた

その集落では十数年前から子どもが生まれなくなっていた
自然の定めだと受け入れる者
全ての人間が何かしらの病にかかってしまったのだと主張する者
神隠しにあった者たちを指し
彼らが森の怒りに触れたのだと言う者さえいた
だが誰にも本当のことは分からなかった

新たな命が育まれなくなり
霧が森を覆う時間が増えていった
年に数日だったそれが
晴れている日の方が数える程になるのにそう時間を要さなかった
霧は村をも包み込み
濃い時には村人同士がお互いの顔を認識できないくらいまでになった
表情は意味を失い人々の顔からも失われていった
人々が一様に悲愴な面持ちなのは霧のせいでもあった

1人の少年が中空に手を差し伸べている
手に纏う霧はさらさらとしていて温度がない
水を汲みに行く途中だった
片方の手には父親が作った金属製のバケツの取っ手が握られている
彼は鍛冶屋の息子だったが父の顔を知らない

村の中に同じ年ごろの者はおらず
彼は生きて行くための術を大人から学び
生きていく上での喜びを森から学んだ

遠くで鳥が鳴いている
彼のお気に入りのミゾゴイだ
束の間耳を澄ませてから
バケツを握り直し沢へ降りていった

川の辺りは緑の香りが濃く
霧がより一層深い
村では川の向こうには妖精が住むと信じられていて
手つかずの状態で森が残っているはずだった
しかし霧のせいでたった数メートルの川の向こう側でさえ
その様子を伺い知ることはできない
少年はかがみ込んで片手で水を一掬いし喉を潤した
水を汲んで立ち上がろうとした時
霧の中に舞う何かを見た
鳥よりも優雅に
蛍の動きに似ているが光を発しない
それは幾つもあったがたちまち消えた
目を凝らしてみたがもう変化は起きなかった

村へ戻ると少年はすぐ母親にその話をした
母親は「霧が見せた幻よ」と言ったが
少年の胸は変わらず高鳴り続けていた

妖精にまつわる言い伝えは幾つかある
男の子が森深く迷い込み泣いていると
どこからともなく現れた妖精たちが
男の子の周りに輪を作った
妖精たちは踊ったり歌ったりしながらぐるぐる回る
男の子はいつの間にか泣き止んで
妖精たちとともに輪になって踊っていた
それから妖精たちは一つの方向を指し示すと姿を消した
男の子はその方向に向かい始める
驚くほど体が軽く
間もなく見えてきた村は空から眺めるととても小さかった
男の子は飛んでいたのだ

この言い伝えは今ではおとぎ話の一つとしてしかとらえられていない
少年も幼い時に母親に何度も聞かされていたが一番のお気に入りだった

少年は妖精を見たことを母親以外には話さなかった
信じてもらえないだろうという以上に
村人の妖精への不信感を募らせたくなかったからだ

受け入れざるをえない哀しい運命のわけを
村人の多くは外に求めたがっている
それはかつて信仰の対象であった森やその生き物たちも例外ではない
閉ざされた未来の中
誰かを責めようとする村人を誰が責められよう

だがその村最後の子どもである少年だけは希望を持っていた
その日それは胸のうちでますます大きくなり
夜になっても寝付けないほどだった

あの日以来
日課の水くみをしていても
川向こうを見つめている
霧の中に動く何かを見ることはなかったが
少年は妖精の存在を確信していた

少年は何度か母親に川向こうに渡りたいと願った
しかしそれだけは絶対にだめだと返ってくる答えはいつも同じだった
虚ろな母親の表情がその時ばかりは厳しくなるのだった

少年はベッドの上で想像する
無邪気な妖精の姿を
未だかつてみたことのない青い空を
そしてそこから見下ろす村の様子を

少年は何かしら口実を作っては森の中へ入っていった
ブナの幹に耳を当てると聞こえる水を吸い上げる音
鳥は彼方で歌い
かすかな風が葉を揺らす
羽虫の羽ばたき
獣の足音
土の中では命が弾ける
そこでうずくまっていればいつ妖精達が取り囲んでくれてもおかしくない
村とは対照的に森はこんなにも生命にあふれている

ある明け方
少年は森の奥へ行くと母親に告げた
それは願いではなく決意だった
じっと息子の顔を見ていた母だったが
今回は反対せず
代わりに少年がこれまで聞いたことのない父親の話を始めた

少年の父親は鍛冶職人だったが
幼いころから炎に興味を持っていた
炎は村では森を滅ぼすものとして使用を極端に制限されていたので
最初は単純に禁忌(タブー)に興味を持ったというのがはじまりであった
それが次第に炎の持つ美しさと力強さにあこがれ魅入られるようになり
森を活かすための炎もあるのだと彼は村で初めての鍛冶職人となった
村の生活に必要なあらゆる道具を作った
例えば彼の息子である少年が今水を汲みに行くのに使っているバケツもそうであったし
スコップや鎌など畑を耕すものもあらかた作った
金属が木材に取って代わり彼のおかげで村の生活は楽になった
初めは炎を使うことに反対していた者たちも
その振り上げた拳を開いて両手を上げざるをえなかった

少年の父親は鍛冶職人となってからも炎自身への興味と探求は尽きることがなかったそうだ
大人になってからも医者となった幼なじみとともに過ごしている姿がよく見られたという
そこにもう一人が加わった
空想癖があり森をふらついては動物や植物と戯れている
村では異端者扱いされている若者だった
動物と話せるというにわかに信じがたい特技を持っていたが
事実彼が野生の動物とともにいるところが村人に目撃されており
あながち嘘とも言えないのだった
そしてその3人が揃っては真剣に話をしたり
小屋に数日入ったきりかと思えば森へ向かう姿が見られたりもした
その様子から彼らが単に連れ立っているのではなく
何かを計画しているのではないかと思われた
しかし何をしているのかは後に妻となった少年の母親でさえも分からないと言った
不審な行動にも関わらず少年の父と医者は村にはかけがえの無い存在だったのでその怪しい行動を正面から批判する者はいなかった
そして3人はいつものように森へ入り
二度と帰ることはなかった

きっと森に取られてしまったのよと少年の母親は言った
森に深入りし魅入られた者は
森が取って隠してしまう
そして二度と戻って来ることはない
それは妖精の話と同じく村に伝わる言い伝えの一つで
村人たちはむしろこちらの話の方を信じていた

母親はそれ以上何も言わず自分のベッドにもぐり込み
背を向けた
少年は小刻みに震える母親の背中をしばらく抱きしめ
家を後にした

朝もやの中
未だ眠りについている村の中を少年は進んだ
カッコウが鳴いている
その鳴き声に導かれるように沢を下っていった
少年の手にはいつもの習慣からかバケツが握られていた
霧の濃い時間帯だったが
水汲み場までは目をつぶっていてもたどりつくことができる
間もなく川のほとりに着くと顔を洗い少しだけのどを潤した

川向こうを覗くといつもと変わりのない森が広がる
持ってきたバケツに履いていた靴を入れ
ズボンの裾をまくった

川に足を踏み入れると
丸みを帯びた石の感触が足の裏から伝わった
川の半ばまで来た時に
森の奥から一際大きくカッコウの鳴き声が聞こえた
少年は川を渡りきると一度だけ振り返り
霧の中へ姿を消した